ました。
 関所で駕籠乗物の用意をするというのを謝絶《ことわ》って、やはり馬で行きました。険岨《けんそ》な道へかかったら馬から下りて歩くと言って出て行きました。
 小仏の宿《しゅく》から峠まで二十六丁。
「しかしあの女は愚かな女じゃ、駒木野を越えたからとて、まだこの先に上野原の関所もあれば、駒飼《こまかい》の関所もある、関所よりもなお難渋な、小仏峠というものもあれば笹子峠というものもある、これを知ってか知らずか、女一人で甲府まで乗り込もうというのは、大胆と言おうか、愚かと言おうか」
 これを話のはじめに、与力同心のなかでいろいろの話が持ち上りました。
「いや、あれは真実、亭主の病気を思うて出かけて来たのかどうかわからんが、とにかく何か思い込んで来たような女である、あんなのが何か思い込むと大胆なことをするものじゃ」
「左様、女軽業の元締《もとじめ》とか言いおったが、彫物《ほりもの》の一つもありそうな女じゃ、しかし悪党ではないらしい」
「悪党ではあるまいが、悪党に変化しそうな女である、あれが悪党になると鬼神のお松といった形で、この峠の上などに住みたがる」
「いや、そういうことはあるまい、あんなのはまかり間違って亭主を剃刀で切るとか、胸倉を掴んでギュウと締めるといった程度で、それ以上のだいそれたことはできまい。むしろ平常《ふだん》は内気でおとなしく、口も碌《ろく》に利かないような女が、時とすると大胆なことをする」
「それはどっちとも言い兼ねる、女はハズミ一つであるから、そのハズミの具合によっていかなることをやり出すかあらかじめ断わりはできない、女そのものの性質というよりも、時のハズミが女を賢婦人にしたり毒婦にしたりする例《ためし》が多い」
「それも一理はあるようじゃ。しかしそれではハズミというものをあまり重く見過ぎたきらいがある、いかにハズミが附いたからとて、政岡《まさおか》が、鬼神のお松になることはなかろう」
「性質にもよりハズミにもよる、罪はその両方にあると見るのが穏当であろう。明智光秀《あけちみつひで》の如きも、信長公があれほどの短気でなかったならば、謀叛《むほん》はしなかったであろうが、たとえ信長公が短気であったところで、光秀そのものに謀叛気がなければ、あんなことにはならぬ」
「要するに鐘と撞木《しゅもく》の間《あい》が鳴るというところで、我々共の役目においてもそ
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