がいいや、お前さんには何も恨み恋はねえんだ、甲府へ行ったらお目にかかりましょうよ」
米友は後ろを振返って、お松に向って大きな声で返事をしました。
「そんなことを言わないで」
お松が押返して言うと、
「今まではお前さんたちと仲よくして来たけれど、これからは他人なんだ」
米友は頑《がん》として首を振ると共に、クルリと背を向けてしまいました。米友はついに留まりませんでした。お松は再び追いかける余力がないので、米友の姿が山の中へ隠れてしまった時分に本陣へ帰って来ました。
お松はもとの座敷へ帰って来て、米友の言い残して行った言葉、いま投げてやった包みに物を聞いてみるがいいと言ったことを思い出したから、机の上に置いてあったあの紙包を取って見ると、それは若干《いくばく》かの金の包みであります。
聡明なお松は、早くもそれと合点《がてん》をしました。お師匠様のお絹が、この金を米友に与えて暇を出してしまったものだろうと感づいたことであります。役に立っても立たなくても一緒にここまで来たものを、もう目的地まで一息というところで暇を出すのは、人情に叶《かな》った仕打ちではないとお松は恥かしい思いをしました。お師匠様のお絹という人は、そのくらいのことをしかねない人。なるほど、神尾の殿様やその家来衆が迎えに来てくれてみれば、米友に附添を頼む必要はなくなってしまったかも知れないけれど、ここでもう用はないからと言って金包を出されたら、大抵の人は気を悪くするに違いないと思いました。
ましてやあの気の短い米友が怒り出して、この金包を叩きつけて逃げるということに、お松はかえって気の毒に堪えないのであります。
そこへ、お絹が見えたから、お松は米友が投げて行った金包を出して事情を話してみると、お絹は、
「それほど粗末になるお金なら返してもらいましょう、わたしに遣《つか》わせればいくらでも遣いみちがあるから」
と言って、恬《てん》としてその金包を再び自分の手に納めた上に、
「ほんとに、素直《すなお》に出て行ってくれてよかった。何かの力になるかと思って頼んでみたら、力になるどころか、かえって世話ばかり焼かせてしまって、この後、どんな間違いを起すか知れたものではない、今のうちに出て行ってくれたから助かったようなものさ」
お絹はこう言って、その金を懐中へ入れてまた、神尾主膳の居間の方へと出て行きました
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