した。もう少しで自分の眉間《みけん》へ当るところであった。誰がこんな悪戯《いたずら》をしたのであろうと、お松は急いでその破れた障子をあけて見ました。
 障子をあけて見ると、米友がいま丸くなって植込の中を向うへ逃げて行く姿が見えましたから、お松は何のことだかわけがわからずに、
「友さん、友さん、今ここへ石を投げたのはお前かえ」
と言って廊下を追いかけるようにしてみましたけれど、米友は返事もしなければ、振返りもしないで、例の足どりで逃げて行ってしまいます。お松はいよいよ事情《わけ》がわからないけれど、米友はすっかり旅の装《よそお》いをして逃げて行くから、ともかくもつかまえて、様子を聞いてみなければならないと思いました。米友は気が短くて怒りっぽいし、それに時々勘違いをして怒り出す癖があるから、これも何か気に入らないことがあって逃げ出すのだろうと思ったから、呼び留めて事情《わけ》を聞いた上で、理解してやりさえすれば直ぐに納まるものと、大急ぎで廊下を駈けて有合せの草履《ぞうり》をつっかけて米友を追いかけました。
 表から逃げないで、裏の方の笹川へ沿うたところの細い道を逃げて行く米友を、お松は追いかけながら、
「友さん、どうしたのです、そう無暗に逃げてしまっては事情《わけ》がわからないじゃありませんか、少し待って下さい、事情を話して下さい、わたしたちを置いてけぼりにして逃げてしまうのは酷《ひど》いじゃありませんか、少し待って下さいよ、ね、友さん」
 お松がこう言って呼びかけた声の聞えないはずはありませんのに、米友はあとをも振返らず、いよいよ一生懸命で逃げて行きました。
「友さん、事情《わけ》がわかりさえすれば、お前の出て行くのを留めはしませんから、ちょっと待って話をして行って下さい、ね、友さん、何が気に入らないの、わたしはこんなに疲れてしまった、これほどにしてお前を追いかけて来たのに、お前が聞かないふりをして行ってしまえば、もし甲府へ着いた時に、君ちゃんの在所《ありか》がわかってもお前には知らせて上げないよ」
 お松は駈けながら息を切って、こう言うと、この遠矢《とおや》が幾分か米友に利いたと見えて、米友は急に立ち止まり、
「お松さん、お松さん、俺《おい》らはこれからひとりで甲府へ行くんだ、俺らがどういうわけでひとりで甲府へ行くようになったのか、いま投げてやった包み物に聞いてみる
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