ましたけれど、これからはもうお前さんの勝手に旅をしてようござんすよ」
「ええ?」
「お前さんは、これから江戸の方へ帰りなさるとも、また甲府の方へ行ってみようとも、もうわたしたちにかまわないで、自分の気儘《きまま》にしておいでなさい」
「うむ」
「これは少しだけれど、ほんの、わたしたちの志《こころざし》、どうぞ納めておいて下さい。それから、もしお前さんが甲府へ行っても、今までの調子で心安立《こころやすだ》てに、殿様のお邸なんぞへ無暗にやって来られては困ることもあるから、そこは遠慮をしておいておくれ、そのうち御縁があればまた何とかして上げないものでもありませんからね」
金一封を包んでそこに置いたまま、眼をパチパチさせて口を吃《ども》らせている米友を見返りもしないで、お絹はさっさとこの場を立って行きました。
お絹の置いていった金一封を前にして米友は、暫く呆然《ぼうぜん》としていたが、やがて冷笑に変ってしまいました。
「ばかにしてやがら」
その一封を横の方から突いてみました。突いてみたのはなにも、その中にどのくらい入っているかというのを試したわけではありません。あんまりばかばかしいから、小突《こづ》き廻してみたのであります。米友は、これらの連中の譜代の家来でもなければ臨時の雇人でもない。甲州へ行こうというのは、必ずしもこの人の附添が目的なのではないのです。これは行きがけの駄賃のようなもので、米友はお君に会いたくてたまらないから、それで甲州へ行く気になったものであります。
この附添は頼んだものでなくて頼まれたものである。いつ断わられたところで敢《あえ》て痛痒《つうよう》を感ずるわけではないけれど、ここで断わるというのは、あんまり人をばかにした仕打ちであると思いました。それだから米友は、
「勝手にしやがれ」
と言って、またその金一封を小突き廻しました。金一封を小突き廻したところで始まらないのであるが、この場合、米友の癇癪《かんしゃく》のやり場としては、どうしても眼の前の金一封が的《まと》になります。
「ばかにしてやがら、こんな金なんぞ要《い》らねえ」
米友はいったん、左の方から小突き廻した金一封を、今度は右の方から小突き廻しました。その有様は、掴《つか》んで抛り出すのも汚《けが》らわしいといった手つきであります。
よしよし、これからは一本立ちで甲府へ行って見せるとも
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