情《ふぜい》で取合いません。
十
こうして神尾主膳の一行は笹子峠を向うへ越えて、黒野田の本陣へ着きました。
黒野田の本陣へ神尾の一行が着いた分には仔細がないけれど、その一つの駕籠の中に隠して来たがんりき[#「がんりき」に傍点]をこの宿へ連れ込むとすれば無事ではないはずだが、一行がこの本陣の前へ着いた時に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の駕籠だけはここへ留めないで、「鳥沢まで送ってやれ」ということになったのは、思うにまたしてもその鳥沢の粂という親分のところまで送り返されるものであろうと思われる。
がんりき[#「がんりき」に傍点]だけを鳥沢へ送りとどけて、神尾の一行が、この本陣へ着いた時に、本陣では前の晩に能登守を泊めたと同じぐらいのもてなしをせねばなりません。
そうしてそれぞれ失礼のないようにお迎え申したけれど、ここに奇怪なのはお絹の素振《そぶ》りでありました。この時、お絹はもう昨夜の災難のことなどは、ケロリと忘れてしまっているようでした。朝寝を少し永くしたぐらいのところで、主膳を迎うべく薄化粧などをして、主膳が着くと、真先に立って下へも置かぬもてなしが、何も知らぬ本陣の人々には別段おかしくもなかったろうけれど、前後を知っているお松には、あんまりそらぞらしいように思われてなりませんでした。
なぜならば、駒井能登守をもてなす時は、神尾の殿様などは有っても無くってもいいような口振をして見せたのに、その能登守が去って神尾主膳が来てみると、能登守なんぞはどこを通ったかというようにして、もう一も二も神尾でなければならないように、そわそわしているからであります。よくもこうまで手のうらを返すようになれるものかと、お松がそれをあまりにそらぞらしく浅ましく思ったのも無理はありません。それのみならず、神尾がここへ着くと共に、早速に酒宴が始まって、お絹が先立ちでその周旋《とりもち》をするという体《てい》たらくになってしまい、お松が座を外して隠れるようにしていると、神尾主膳は、お絹を相手にして盛んに飲みながら、お前もひとりで貞女暮しは淋しいことだろうとか、殿様も甲府ではまた罪をお作りになったことでございましょうとか、お松か、あれも年頃になったな、お前の仕込みだから抜かりもあるまいとかいうような言葉を洩れ聞いたお松は、面《かお》から火が出るようでありました。
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