めに行くので、征伐に行くのとは違う、それ故、弓矢の手向けをするにも及ぶまい」
「天文《てんもん》十六年の事、原美濃守がこの関所を千貫に積って知行《ちぎょう》している、もし武田勝頼が天目山で討死をせずに東へ下ったものとすれば、この峠が第一の要害になったのであろうけれど、このことなくして止んだから、この峠に軍勢を上せたことは、まず近代にはないようである。小田原北条の一族、左衛門太夫|氏勝《うじかつ》が八千余騎でここに陣取って足軽を駒飼まで進めたこと、これが近ごろの記録であるようじゃ」
「よくお調べでござるな」
「それから昨夜、土地の人に就いて聞けば、山に何か異変が起る時は、この杉が唸《うな》るということじゃ」
「杉が唸るというのも、おかしなことであるけれど、風でも吹けばこれほどの大木ゆえ、じっとして黙ってはいまい」
「それから時々、この杉の頂辺《てっぺん》へ天狗が来て巣を食い、おりおり下界から人を浚《さら》って来てこの杉の枝へ突っかけて置くということじゃ」
「ははあ、天狗が留るか。なるほど、木もこのくらい大きくなれば、いかさま天狗が住めそうじゃ。それといえば、昨夜あの婦人、あれがもしやその天狗に浚われたのではないか」
「なるほど、よいところへこじつけたものだ。或いはその天狗がまだ一人二人の婦人を浚って、この杉の枝へ掛けて置くやも知れぬ、よく調べてみるがよい」
「しかし……また婦人の挙動は、あれは考えものだな」
 杉の考証と伝説は転じて、昨夜のお絹の挙動及びその行方のことになりました。
 お絹が一切を語らなかったから、これらの人々も何と判断のつけようがなく、結局この矢立の杉あたりに棲む天狗の仕業《しわざ》という里人の迷信を打消しもせずに出て来たものでありました。けれども、ここで考え直してみれば、どうしても解《げ》せぬことであります。
「さてこの道中は、いろいろな珍らしいことに出会《でっくわ》す。顧みて数えると、まず駒木野の関所であの女、次に小仏峠で足の早い奴、それから鶴川では槍をよく使う小兵《こひょう》の男、それから猿橋へ来て橋へ吊されたものが前の足の早い奴で、また片手の無い奴、それを捉まえてみるとその夜のうちに消えてなくなる」
「それらと考え合せると、昨夜の婦人の挙動、それから前のいろいろの珍事にいちいち糸が引いてあるようにも思われる、もしあの片手のない奴が、昨夜の婦人
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