しの種と思って、はからずお松と逢ってみれば、その言うことのしおらしさにいちいち感心してしまうようになったのは、ついこのごろのことでありました。
「わたしはもうこれまでの体だから、これからお前を養女にして、町人でいいから堅そうな養子を見立てて、小店《こだな》の一軒も出すようにして、お前の世話になって畳の上で死ねるようになりたい」
 なんぞと、心細いことをも言い出すのでありました。今夜もまた二人は床を並べて寝《しん》に就きましたが、
「お師匠様、まだお手形は出ませんのでございましょうか」
 お絹は思い出したように、
「ああ、もう下《さが》りそうなものですよ。けれどもお前も知っての通り、女の手形というものはなかなか手続が面倒なのだから、それでこんなに延びるのでしょう。もしあんまり後《おく》れるようならば、わたしがまた頼み込んでみるところがあるから、もう二三日待ってごらんなさい」
「もし、お手形が下りませんでしたらば、わたしはお手形なしで、裏道を通っても、早く甲府へ参りたいと存じます」
「わたしの方はそうはゆかないから、まあもう少し待っておいで」
 お絹とお松との手形というのは、疑いもなく、甲
前へ 次へ
全135ページ中94ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング