太郎とやらいう足りない男と逃げたというじゃないか」
「どうも申しわけがありません」
「お前があんな不始末をしてくれたおかげで、わたしは殿様の前へ、どんなに辛《つら》い思いをしたか知れやしない。ほんとに考えなしなことをしてくれたね」
「何卒おゆるし下さいまし」
「出来てしまったことは仕方がないが、もうその与太郎という風呂番とは手が切れてしまったのかい」
 お絹が与太郎与太郎というのは与八のことですけれど、お絹の口ぶりによれば、お松と与八と逃げたのは不義をして逃げたもの、お松がその風呂番に嗾《そその》かされて逃げたものと思い込んでいるらしいから、お松は、
「あの人が、よく親切にしてくれましたけれど、わたしが上方《かみがた》へやられたものですから……」
「何が親切なんだろう、色恋にも名聞《みょうもん》というものがあるのに、風呂番と逃げたんでは話にもなにもなりゃしない。ほんとうにわたしは、あの時ぐらい情けなく思ったことはありません」
「そういうわけではございませぬ」
「それからお前、上方へも行っていたそうな。一度ぐらいわたしのところへ便りをしてくれてもよかりそうなもの」
「そのつもりでおりまし
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