、お客の扱いに別に変ったところはなく、「銀床《ぎんどこ》」という看板、鬢盥《びんだらい》、尻敷板《しりしきいた》、毛受《けうけ》、手水盥《ちょうずだらい》の類までべつだん世間並みの床屋と変ったことはない。ただ一つ変っているのは、この主人がてんぼう[#「てんぼう」に傍点]であったことだけであります。
 どうしたわけかこの床の主人には右の片腕がありません。滅多には店へ出て来ないけれども、職人小僧の使いぶりは上手であるらしい。
 この床屋の店先で、
「どうです、皆さん、大きな声では読めねえがこんなものが出ましたぜ」
「何でございます」
「まあ、読むからお聞きなさいまし」
「聞きやしょう」
 懐ろから番附様のものを取り出して、お客の一人が、
「ようございますか、恐れながら売弘《うりひろ》めのため口上……」
「なるほど」
「此度《このたび》徳川の橋詰に店出《みせだし》仕り候|家餅《いへもち》と申すは、本家和歌山屋にて菊の千代と申弘《もうしひろ》め来り候も、此度相改め新製を加へ極《ごく》あめりかに仕立《したて》趣向|仕《つかまつ》り候処、これまで京都堺町にて売弘め候|牡丹餅《ぼたもち》も少し流行に
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