むことにしてみよう。素直《すなお》にお暇の出ないことは知れているから、今夜、わしが人目に立たぬようにお前のところへ迎いに行く、それまでに身の廻りの物を用意して待っているがいい。それからお邸の間取り、お前の部屋の案内を聞かしておいてもらいたい」
 そこで七兵衛はお松から、邸の内部の模様をややくわしく聞き取って、二人はこの店を別れました。

         七

 お松は七兵衛と別れて、越後屋の奥座敷を出て、薩州邸の長い土塀をグルリと廻って徳島藩の裏門を入りました。
 その晩、お松はいろいろの思いで手近のものを用意して、日が暮れるのを待ち兼ね、日が暮れると、夜の更《ふ》けるのを待ち兼ねていました。ほかの女中たちは、昼の疲れで早くから眠ってしまいました。お松は女中部屋の戸を細目にあけて待ち構えています。
 屋敷の庭には大きな池があって、池の向うには高い火の見櫓が立っています。お松が夜更けて七兵衛の合図を待つ時分に、この火の見櫓の上に二つの黒い影法師がありました。共に夜番や火の番の類《たぐい》ではなく、覆面をして両刀を差して一人は手に龕燈《がんどう》を携えていました。この二人の武士は相当に身
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