転んで倒れて泥濘《ぬかるみ》の中へ、せっかくの一合の酒も鰻の丼もみんなブチまけてしまったようですから、米友は舌打ちをして、
「だから言わねえことじゃあねえや、そそっかしい女だなあ」
 潜《くぐ》り戸《ど》から面《かお》を出して、雨の降る暗いところで転んだ女中をたしなめようとする途端《とたん》、
「静かにしろ」
 その潜り戸から跳《おど》り込んだ二人、小倉の袴に朱鞘に覆面、背恰好《せいかっこう》とも、忠作の家で金目の葛籠《つづら》を奪って裏口から悠々と逃げた強盗武士そのままの男であります。
「さあ来やがった」
 覚悟の上。米友は不自由な足ながら傘《からかさ》のお化《ば》けのように後ろへ飛んで返って、以前の一間に置いてあった槍を手に取りました。
「待ってたんだ、両国橋の立札を川ん中へ抛り込んだのは俺らの仕業《しわざ》に違えねえ、さあ何とでもしてみろ、宇治山田の米友の槍を一本くらわせてやる」
 米友の槍は、これを侮《あなど》っても侮らなくても防ぐことはむずかしいものです。
「呀《あ》ッ」
 内へ転げないで外へ転げた覆面の浪士は、米友の一槍で太股《ふともも》のあたりをズブリと刺されたらしい。

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