申さないとは申しません。甲府へ行く前にこの証文通りお借り申しました。甲府から帰って参りますと、佐久間町の方へお返しに上ったんですけれど、お家が壊《こわ》れておいでなすって、どこへお引越しなすったか近所で聞いてもわかりませんから、ツイそれなりになってしまったんですよ。決して返さないつもりじゃございません、お借り申したものはお借り申したもの、それをこうして不意にわたしの鼻先へ突きつけて下さるなんぞは御念が入《い》り過ぎましたね、あんまり御念が入って御親切が有難過ぎるから、わたしの方でも少々御念を入れてから返して上げることに致しましょうよ」
「ええ、いつでもようございますよ、このお預かりの方はいつでもかえして上げますが、あの娘の方は何べん取りにおいでなすっても無駄道でございますから、その方はお断わり申しておきますよ」
「おや、それはどういうわけでございましょう。なるほどこの証文は口を利きますけれど、あの娘さんはありゃ山下の床屋から、道庵先生のお手を通して当家様へお預け申した人、いくら高利貸が御商売でも、誘拐《かどわかし》までなさるんじゃございますまいね」
「気をつけて口をおききなさい、誘拐と
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