頭より発して、刀を抜き放って竜之助に斬ってかかったが、脆《もろ》くもその刀を奪い取られて、あっというまに首を打ち落されてしまったから、一座は慄《ふる》え上ってしまいました。
 役人に附いて来た下人《げにん》どもは、もう手出しをする勇気もありませんでしたが、今まで役人どものなすところを歯咬《はが》みをして口惜しがっていた望月方の者でさえも、これには青くなってしまいました。口を利《き》いてくれることは有難いけれども、これではあんまりである、こんなにまでしてくれなくともよかったものを、後難が怖ろしいと、誰も役人の殺されたことを痛快に思うものはなくて、かえって竜之助の挙動《ふるまい》の惨酷《さんこく》なのに恨みを抱くくらいでした。
「飛んでもないことが出来た、仮りにもお役人をこんなことにして、さあこれからの難儀の程が怖ろしい」
 蒼くなって口を利く者もなく、手を出す者もなかったのを竜之助が察して、
「心配することはない、これはほんものの甲府勤番の神尾主膳ではない、偽《いつわ》り者である、その証拠には自分がほんものの神尾主膳への紹介状を持っているし、自分の友達はその神尾をよく知っている、これは近ごろ流行の浮浪の武士が、こんな狂言をして乗込んで金を盗《と》ろうとして来た者だ、それだから二人とも殺してしまった、以後の見せしめにこの首を梟《さら》し物《もの》にしてやるがよい、後難は更に憂《うれ》うるところはない、この二人が乗って来た乗物の中へ自分が乗って甲府へ行って、この責《せめ》は引受ける、村の人たちにはかかり合いはさせぬ」
と言って竜之助は、二人の偽役人《にせやくにん》が乗って来た乗物にお伴《とも》の連中をそのままにして乗り込んでしまいました。お伴の連中が狐を馬に乗せたような面《かお》をして竜之助を荷《にな》ってここを立って行ったのは昨日の朝。
 若い者の頭分は、それをいろいろな仕方話《しかたばなし》で竹刀《しない》で型をして見せたりなんかして、だいぶ芝居がかりで話しました。ことに竜之助が槍で突いた時の呼吸や、一刀の下に首を打放《ぶっぱな》した時の仕草《しぐさ》などを見て来たようにやって見せて、
「なにしろ強い人でございます、滅法界《めっぽうかい》もなく強い人でございます。あれから当家へおいでなすった時に、こうして私共が剣術をしているのを見て……ではない、その様子を聞いていまして、さあこうして拙者《わし》が立っているから打ち込んでごらんと、竹刀を片手にそこへ突立っておいでなさるところを、大勢して覘《ねら》って打ち込んでみましたけれども、どうしても身体へ触《さわ》ることができませんでした。眼が見えないであのくらいですから、眼が見えたらどのくらい強いんだかわかりません」
「その盲目《めくら》の武士《さむらい》という者こそ、永年拙者が尋ねている人」
 兵馬は一礼して、この家の門を出て行きました。

 望月の家を走《は》せ出した兵馬が、この村をあとにしてもと来た道。そこへちょうど通りかかったのは、空馬《からうま》を引いた、背に男の子を負《お》うた女。
「その馬はこれからどちらへ行きます」
「これから三里村を通って七面山《しちめんざん》の方へ参るのでござんす」
「はて、それでは少し方角が違うけれど、拙者はちと急ぎの用があって甲府まで帰らねばならぬ者、お見受け申すに、馬は空荷《からに》の様子、せめてあの丸山峠を越すまでその馬をお貸し下さらぬか」
 兵馬はその女の人に頼んでみました。
「お急ぎの御用とあらば……わたくしどもには少し廻りでござんすけれど、お貸し申してもよろしうございます、お乗りなさいませ」
 兵馬は、この婦人が快く承知をしてくれたのを嬉しく思いました。
 しかし、馬に乗りながら見るとこの婦人が、眼に涙を持っているのが不思議であります。

         二

 こうして宇津木兵馬は、またも甲府まで戻って来てみましたところが、机竜之助の乗物が神尾主膳の邸内へ入り込んだことは確かに突き止めたけれども、それから先どこへ行ったか、それともこの邸内に留まっているものだか、そこの見当が一向つきませんから、ぜひなく非常手段に出でて、夜分ひそかに神尾の邸内へ忍び込んでみようと思いました。
 三日目の晩は雨が降って風も少し吹いていたから、兵馬はそれを幸いに、城内の神尾が屋敷あたりまで密《ひそ》かに入り込んで夜の更《ふ》くるのを待ち、追手濠《おうてぼり》の櫓下《やぐらした》へ来て濠端の木蔭に身をひそませている時分に、思いがけなく、濠の中からムックと怪しい者が現われて来ました。片手には金箱《かねばこ》のようなものを抱え、覆面して脇差を一本差し、怪しいと兵馬が思う間に、その男は金箱を濠の端に置いて櫓の方へ、また取って返しました。
 まもなく櫓《やぐら》の下から
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