いと言うし、それはとにかく、兵馬が何故に夜分あんなところへ来合せたかということが、誰にとっても解けぬ不審でありました。すべてが兵馬に不利になってゆくから、気の毒にも兵馬は、獄に下されるよりほかに仕方のない羽目《はめ》に陥りました。

         三

 さるほどに道庵先生がまた飛び出して来ました。どこへ飛び出したかと言えば、貧窮組《ひんきゅうぐみ》の中へ飛び出して来ました。
 この貧窮組というものが、前に申すように、山崎町の太郎稲荷《たろういなり》から始まるには始まったが、このくらい不得要領な組合もなかったものです。幾百人の男女が市中を押廻って、町の角や辻々へ大釜を据《す》えて、町内の物持から米やお菜《かず》を貰って来て粥《かゆ》を炊《た》いて食い、食ってしまうと鬨《とき》の声を挙げて、また次の町内へ繰込んで貰って炊いて食い歩くのです。その仲間に入らないと受けが悪いから、相当の家の者共がみんないっぱしの貧窮人らしい面《つら》をして粥を食い歩く。食って歩くだけで別に乱暴するではない。大塩平八郎が出て来るでもなければ、トロツキーが指図をするわけでもない。ただわーっと騒いで歩くだけのことだから、道庵先生が出現するには恰好《かっこう》の舞台です。
 長者町の先生の家へ、町内の遊び人がやって来て、
「今日はわっしどもの町内でも、いよいよ貧窮組をこしらえますから、こちら様でもお仲間入りをして下さるか、そうでなければ、いくらか奉納を致してもらいてえんでございます。それができなければ、こっちにも覚悟があるんでございます」
と出ました。
 それを聞いたから道庵先生が、飛び上って喜びました。
「しめた」
 草履を逆さにして、遊び人をそっちのけにして駈け出してしまったわけです。
「ばかにしてやがら、貧窮組ならこっちが先達《せんだつ》だ、おれに断《ことわ》りなしに拵《こしら》えたのが不足なぐらいなもんだ、押しも押されもしねえ十八文だ、十八文の道庵は俺だ」
 ちょうど米友が柳原河岸へ行ってしまった時分に、道庵先生は昌平橋で大勢の貧窮組が粥を食っているところへ駈けつけました。
「さあ道庵が来たぞ、十八文の道庵は俺だ、見渡したところ、貧窮組の先達で俺の右へ出る奴はあるめえ」
 自分から名乗りを上げてしまいました。元より道庵先生はこの近所で人気があるのです。人気がある上に、ちょうどこういう舞台へ乗り出すにはうってつけの役者でしたから、一同がその名乗りを聞くと、やんやと言って喝采《かっさい》しました。道庵先生の得意|想《おも》うべしで、嬉し紛れに米俵を引いて来た大八車の上へ突立って演説をはじめてしまいました。
「さあ、皆の衆、俺は御存じの通り長者町の十八文だ、今度、皆の衆が貧窮[#「貧窮」は底本では「貧弱」]組をこしらえたというのは近頃よい心がけで俺も感心した、俺に沙汰無しで拵えたことがちっとばかり不足といえば不足だが、それは感心と差引いて埋合せておく。いったい物持というやつが癪にさわる、歩《ふ》が成金《なりきん》になったような面《つら》をしやがって、我々共が食うに困る時に、高い金を出して羅紗《らしゃ》なんぞを買い込みやがる。そこで皆の衆が物持から米や沢庵を持って来てウント喰い倒してやるというのは、天道様《てんとうさま》の思召《おぼしめ》しだ、実にいい心がけである、賛成!」
 煽《あお》ってしまったからたまらない。
「やんや」
「やんや」
 四方から喝采が起る。道庵先生、いかめしい咳払《せきばら》いをして、
「これから俺が先達になってやるから安心しろ。しかし俺は大塩平八郎ではねえから、危なくなれば逃げるよ。俺に逃げられたくねえと思ったら乱暴をするな、人の物を取るな、女をいじめるな、役人が来たら俺も逃げるからみんなも逃げろ」
「やんや」
「やんや」
「相対《あいたい》で物を貰って喰うには差支えねえ、人の物を盗《と》ったり乱暴をしたりすると、捉《つか》まって首を斬られる、首を斬られるのは俺もいやだがお前たちもいやだろう、だから乱暴をしてはいけねえ」
 この不得要領な貧窮組は、その夜は昌平橋際へ夜営をしてしまいました。このくらいの騒ぎだから役人の方へも聞えないはずはありません。けれども幕末の悲しさ、これを押えんために捕方《とりかた》が向って来る模様も見えませんでした。そうなってみると貧窮組の組織は、決してこの一カ所にとどまらないことです。
 江戸市中、至るところにこの貧窮組が出来てしまいました。道庵先生の如きは興味を以てこの貧窮組に賛成をしたけれども、貧窮組に馳せ参ずるもののすべてが、道庵先生の如き無邪気な煽動者《せんどうしゃ》ばかりではありません。と言って幸いなことに、大塩もトロツキーも出て来なかったから、それを天下国家の問題にまで持ち上げる豪傑は入って来な
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