なすってみてごらんなさいまし」
「そうですか、それじゃ楽屋の方へ廻ってみるかな」
 米友は久しぶりでこの小屋の内部へ入ってみました。
 大勢の人は気がつかないで立働いているが、米友はなんだか気が咎《とが》めるような心持で、勝手知ったる楽屋のところまで来て、恐る恐る言葉をかけました。
「こんにちは」
 楽屋では一座の美人連が出揃って、新興行にかかる小手調べをしているところでした。
「こんにちは」
 米友は女軽業の美人連の稽古場《けいこば》を覗《のぞ》き込むと、
「どなた」
「おやおや、米友さんじゃないか」
「まあ、米友さんが来たよ、可愛らしい米友さんだよ」
 美人連は稽古をしたりお化粧をしたりしている手を休めて、米友の方を見ました。米友は怖る怖る、
「皆さん、暫らく」
「米友さん、ほんとに暫らくだったね、どこにどうしていたの」
「あっちの方にいたんだ。皆さんはいつ帰ったんだい」
「わたしたちはこのあいだ帰ったのよ、まあお上り」
「上っちゃ悪かろう、親方はいねえのかい」
 米友は楽屋の中を見廻しましたけれど、不幸にして、お君の姿は見えませんでした。土間を見たけれども、ムクの姿をさえ見ることができませんでした。
「親方は、ちょっとそこまで用たしに行ったから、もう直ぐに帰るだろう」
「あの……あの、君ちゃんはいねえのか」
「君ちゃん……」
と言って、美人連は面《かお》を見合せました。
「君ちゃんも旅から一緒に帰ったんだろう、どこにいるんだい」
 米友は、美人連が見合せた面をキョロキョロと見ていました。
「君ちゃんはねえ……君ちゃんは帰らないんだよ」
「おや、君ちゃんは帰らないんだって? みんながこうして面を揃えているのに、君ちゃんだけが帰らないのかい」
「ええ、君ちゃんだけが帰らないんだよ」
「そりゃどうしたわけなんだい、君ちゃん一人を置いてけぼりにして来たのかい、そんなわけじゃあるめえ」
 米友がお君の安否を気遣《きづか》う様子があんまり熱心であったから、美人連はおかしがって、つい冗談《じょうだん》を言ってやる気になりました。
「米友さん、君ちゃんは旅先で、いい旦那が出来たから、それで帰るのがいやになったのだよ」
「いい旦那が出来たって?」
「わたしたちなんぞはいずれもこんな御面相《ごめんそう》だから、誰もかま[#「かま」に傍点]ってくれる人はないけれど、君ちゃんは容貌《きりょう》よしだから、忽ち旦那が附いちまったんだよ」
「そんなはずはあるめえ、そりゃ嘘《うそ》だ」
 米友は、いよいよ一心になりました。一心になればなるほどその態度が滑稽になりますから、人の悪い美人連は、そんなに悪い気分ではないけれど、ついついからかい[#「からかい」に傍点]があくどくなってゆきます。
「第一、ここに君ちゃんのいないのが何よりの証拠じゃないか。ほんとにあの人は仕合せ者だよ、甲府の御城内でお歴々のお方を擒《とりこ》にして、今は玉の輿《こし》という身分でたいした出世なのに、わたしたちなんぞは、いつまでもこんな稼業《かぎょう》をしていなけりゃならない、ほんとに君ちゃんを思うと羨《うらや》ましくてたまらない」
 口から出まかせにこんなことを言いましたのを米友は、そんなことはないと思いながらツイツイ釣り込まれて、
「ナニ、君ちゃんが俺《おい》らに相談なしで、そんなことをするもんか、俺らがちゃんと附いてるんだ」
 ウカウカと米友がこう言ったのが、美人連の笑いを買いました。
「ホホホホ、そうでしたねえ、君ちゃんには米友さんが附いているんでしたねえ、こんな色男を捨てて君ちゃんも罪なことをしたものさ」
 彼等は辛辣《しんらつ》な軽侮《けいぶ》を米友の上に加えました。
 女軽業の美人連は興に乗って米友に毒口を利きました。こんな毒口は楽屋うちで言い古されている毒口でしたけれども、単純な米友は嚇《かっ》と怒りました。
「ばかにするない、そんな了簡《りょうけん》で言ったんじゃあねえぞ」
「米友さん、怒っちゃあいけないねえ、君ちゃんに捨てられたと思って、そんなに自棄《やけ》を起しちゃいけないよ」
「馬鹿」
 米友は眼をクルクルと剥《む》いて美人連を見廻しました。
「君ちゃんは俺《おい》らと約束がしてあるんだ、約束を破るのは女郎と同じことなんだ、君ちゃんは俺らと約束を破って、一人で残っているような女じゃねえんだ、それを残して来たのはお前《めえ》たちが悪いんだ」
「手が着けられないね。米友さん、お前が君ちゃんと、どんな約束をしたか知らないが、現に君ちゃんはここにいないで、江戸へ帰るより甲府がいいと言って残っているから、文句がないじゃないか」
「お前たちが残して来たんだ」
「ばかにおしでないよ、こうして座を組んで、一つ鍋の御飯をいただいて歩いていれば姉妹《きょうだい》同様じゃないか、
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