いませんから」
「それは困ったことになりました、あの先生に限って、酔っぱらっておいでになっても、信用の置けることには置ける先生だとばかり思って安心して上りましたのに」
「どうもお気の毒に存じます、もう一度先生の方を確めてごらんなさいませ」
「そういうことに致しましょう。これはどうも飛んだ失礼を致しました、そそっかしいことでお恥かしうございます、幾重《いくえ》にもお許し下さいまし」
お角は当惑してしまったから、お絹に向って自分のそそうを詫びました。
「まあよろしうございます、お茶を一つ召上れ」
お絹がお茶を一つと言った時に、何も知らないお松はお茶を立ててこの場へ持って出ました。お角は今お詫びをして帰ろうとするところへお松が入って来たものだから、思わずその面《かお》をじっと見て、
「おや、このお娘さんは……」
お角が驚いて膝を立て直すのを見て、お絹は莞爾《にっこり》と笑いました。
お松は何のことだかわかりませんで、ただこの女のお客が自分を見て仰々《ぎょうぎょう》しい表情をしたことを、少しくおかしく思いながら、
「おいであそばせ」
一礼をして出て行こうとする時、お角の言葉つきがガラリと変って、
「奥様、おからかい[#「おからかい」に傍点]なすってはいけませんよ、女のことでございますから怯《おび》えますよ」
膝を立て直したお角の挙動を、ますます怪しいことに思いながらお松はお茶を出して、次の間へ立去ってしまいました。それを流し目でお角は見送りながら、
「奥様、お前様は、女の子はおろか、猫一匹も道庵先生からお預かり申した覚えはないとおっしゃいましたね。そんなことだろうと思いました。危ないこと、子供の使いで追い返されて、こっちからは赤い舌を出され、向うでは笑い物にされるところでしたよ」
お角は坐り込んで、ことわりもなしにお絹の煙管《きせる》を借りて煙草を一ぷくつけた時に、お絹はさいぜんの証文を取り出しました。
「お前さんには、あの女の子より先にお預かり申した品があるから、それをお返し申してからの話にしようと思いました」
お絹はその証文をお角の前に置くと、お角は不審な面《かお》をして煙管を投げ出し、証文を取り上げて披《ひら》いて見ました。
「おやおや、こんな品物が奥様の方に廻っていようとは存じませんでした。エエよろしうございますとも、お借り申したものは決してお借り
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