府へ行こうとするその道筋のお関所へ見せる女手形《おんなてがた》のことでありましょう。それを願い出ておいて、まだ下《さが》らないから二人でこんな噂をしているのです。
 その翌朝になると女中が、
「旦那様、お客様でございます、山下の床屋からと申しました」
と聞いて、お絹はそれと気がつきました。
「まあ、お待ち、どんな人が来たか見てやりましょう」
 お絹はワザワザ自身に立って玄関の襖《ふすま》の隙から表を見ると、先日の夕方、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と睦《むつ》まじそうに山下の雁鍋《がんなべ》から出て来たお角でありましたから、また居間へ帰って、わざととりすまして、
「何の御用ですか聞いてごらん、お門違《かどちが》いではございませんかと尋ねてごらん」
 それで女中が出て行きましたが、暫くたってまた引返し、
「旦那様へ、このお手紙をお目にかけさえすればわかるからと申しました、お客様は女の方でございます」
 一封の手紙を取次いだからお絹はそれを取って見ると、長者町の道庵先生からであります。
 封を切って読んでみると、その文面は、かねてお預け申してあった娘を、この手紙を持った人が迎えに行くから渡してやってくれ、お礼には後で拙者が出るからということでありました。まさしく道庵先生の筆に違いないけれど、お絹はわざとらしく解《げ》せないような顔をして、クルクルと巻いてしまい、それを女中に突き返すようにして、
「どうも、お手紙の筋は手前共の主人にはよくわかり兼ねますから、お返事の致し様がございませんとそう言って、この手紙を返してやってごらん」
「畏《かしこ》まりました」
 女中はまた出て行きました。なんと言って来るか知らんとお絹は、煙草の煙を吹いておりました。
「旦那様」
 またまた取次の女中がやって来ました。
「帰ったかい」
「いいえ、お客様は、そんなはずがないと申しておりまして、とにかく御主人様にお目にかかった上で、お門違《かどちが》いならお門違いのようにお詫びを致しますからと言って動きませんのでございます」
「そうだろうと思った。それではお通し申して置き。それから、用箪笥《ようだんす》の抽斗《ひきだし》の二番目のをそっくり引き出してここへ持って来て下さい」
 女中はまず、命ぜられた通りに用箪笥の抽斗をそっくり引抜いて、お絹の前へ持って来てからまた取次に出かけました。
 お
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