申したいと存じまする」
 前にはいやがって逃げ出した神尾の殿様のところへ、今度は進んで行こうと言い出したのは、それだけ苦労をして来たききめだろうと思いました。
「ほんとにお前は感心なところへ気がつきました。それは甲府詰といえばお旗本の運の尽きで、ああして我儘《わがまま》をしておいでなすっただけに、今はどんなに苦労をしておいでなさるかと、それを思えば、おいとしくてなりませぬ。お前がそう言ってくれるのが、わたしにとっては親身《しんみ》のように嬉しい。御威勢のよい時は、ずいぶん忠義を尽す人も多かったのに、今は江戸からお手紙を差上げる人もない御様子、それをお前が、自分から御奉公に上ろうと言ってくれる心が嬉しい」
 お絹は喜びました。お松はなにも元の殿様に忠義を尽す心から言ったのではなかったけれど、お絹はお松の初心《うぶ》な気性を、ただ律義一遍《りちぎいっぺん》にのみ受取ったから親身に嬉しく思ったのでした。そういうふうにすべて善意に受取られることは、お松の性質の一徳でありましたけれど、お絹もまたこのごろでは、物に感じ易くなってしまったのです。さほどでもないことを嫉《ねた》ましく思ったり、その仕返しの種と思って、はからずお松と逢ってみれば、その言うことのしおらしさにいちいち感心してしまうようになったのは、ついこのごろのことでありました。
「わたしはもうこれまでの体だから、これからお前を養女にして、町人でいいから堅そうな養子を見立てて、小店《こだな》の一軒も出すようにして、お前の世話になって畳の上で死ねるようになりたい」
 なんぞと、心細いことをも言い出すのでありました。今夜もまた二人は床を並べて寝《しん》に就きましたが、
「お師匠様、まだお手形は出ませんのでございましょうか」
 お絹は思い出したように、
「ああ、もう下《さが》りそうなものですよ。けれどもお前も知っての通り、女の手形というものはなかなか手続が面倒なのだから、それでこんなに延びるのでしょう。もしあんまり後《おく》れるようならば、わたしがまた頼み込んでみるところがあるから、もう二三日待ってごらんなさい」
「もし、お手形が下りませんでしたらば、わたしはお手形なしで、裏道を通っても、早く甲府へ参りたいと存じます」
「わたしの方はそうはゆかないから、まあもう少し待っておいで」
 お絹とお松との手形というのは、疑いもなく、甲
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