姿であったからであります。
 次の間で隙見をしていたお絹が驚いたばかりでなく、迎えに出た道庵もまた驚きました。お松にとっては道庵は再生の恩人であり、伊勢参りをした時に大湊《おおみなと》で会って奇遇を喜んだこともありました。これはこれはと言って道庵もお松も直ぐ打解けた。事情を聞いて、連れて来たがんりき[#「がんりき」に傍点]も喜んで、なおいろいろとお頼み申した上に無事に帰ってしまいました。
「お松ではないか」
 お松はその声を聞いて、水をかけられたような心持がしました。そこに立っているのは、姿こそ今は丸髷《まるまげ》の奥様風になっているが、もと自分を仕立ててくれたともかくも恩人でありましたから、
「まあ、お師匠さん」
 頓《とみ》には二の句がつげませんでした。
「珍らしいところで会ったね」
「どうも御無沙汰《ごぶさた》を致して済みませぬ」
「見ればお前はどこぞお邸奉公でもしておいでのようだが、どこに勤めていました」
「はい、三田の蜂須賀様のお邸に」
「どうしてお前、あの神尾様のお邸を出てしまったの」
「つい、よんどころないことが出来まして、それ故まことに……」
「人もあろうに、風呂番の与太郎とやらいう足りない男と逃げたというじゃないか」
「どうも申しわけがありません」
「お前があんな不始末をしてくれたおかげで、わたしは殿様の前へ、どんなに辛《つら》い思いをしたか知れやしない。ほんとに考えなしなことをしてくれたね」
「何卒おゆるし下さいまし」
「出来てしまったことは仕方がないが、もうその与太郎という風呂番とは手が切れてしまったのかい」
 お絹が与太郎与太郎というのは与八のことですけれど、お絹の口ぶりによれば、お松と与八と逃げたのは不義をして逃げたもの、お松がその風呂番に嗾《そその》かされて逃げたものと思い込んでいるらしいから、お松は、
「あの人が、よく親切にしてくれましたけれど、わたしが上方《かみがた》へやられたものですから……」
「何が親切なんだろう、色恋にも名聞《みょうもん》というものがあるのに、風呂番と逃げたんでは話にもなにもなりゃしない。ほんとうにわたしは、あの時ぐらい情けなく思ったことはありません」
「そういうわけではございませぬ」
「それからお前、上方へも行っていたそうな。一度ぐらいわたしのところへ便りをしてくれてもよかりそうなもの」
「そのつもりでおりまし
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