、お客の扱いに別に変ったところはなく、「銀床《ぎんどこ》」という看板、鬢盥《びんだらい》、尻敷板《しりしきいた》、毛受《けうけ》、手水盥《ちょうずだらい》の類までべつだん世間並みの床屋と変ったことはない。ただ一つ変っているのは、この主人がてんぼう[#「てんぼう」に傍点]であったことだけであります。
 どうしたわけかこの床の主人には右の片腕がありません。滅多には店へ出て来ないけれども、職人小僧の使いぶりは上手であるらしい。
 この床屋の店先で、
「どうです、皆さん、大きな声では読めねえがこんなものが出ましたぜ」
「何でございます」
「まあ、読むからお聞きなさいまし」
「聞きやしょう」
 懐ろから番附様のものを取り出して、お客の一人が、
「ようございますか、恐れながら売弘《うりひろ》めのため口上……」
「なるほど」
「此度《このたび》徳川の橋詰に店出《みせだし》仕り候|家餅《いへもち》と申すは、本家和歌山屋にて菊の千代と申弘《もうしひろ》め来り候も、此度相改め新製を加へ極《ごく》あめりかに仕立《したて》趣向|仕《つかまつ》り候処、これまで京都堺町にて売弘め候|牡丹餅《ぼたもち》も少し流行に後《おく》れ強慾に過ぎ候、三条通にて山の内餅をつき込み……」
「ははアなるほど、御養君の一件だね、誰がこしらえたかたいそうなものを拵《こしら》えたものだが、うっかりそんなものは読めねえ」
「ナニ、御威勢の盛んな時分ならこんなものを拵える奴もなかろう、拵えたって世間へ持って出せるものではねえが、何しろ今のような時勢だから、公方様《くぼうさま》の悪口でも何でもこうして版行《はんこう》になって出るんだ」
「それだってお前、滅多《めった》にそんな物を持って歩かねえがいいぜ、岡ッ引の耳にでも入ってみろ、ただでは済まされねえ」
「大丈夫だよ、何しろ公方様の御威勢はもう地に落ちたんだから、とてもおさまりはつかねえのだ、ああやって貧窮組が出来たり、浪人強盗が流行《はや》ったり、天誅《てんちゅう》が持ち上ったりしている世の中だ」
「悪い悪い、公方様の悪口なんぞを言っては悪いぞ」
「かまうものか、公方様も今時の公方様は、よっぽどエライ公方様が出なくちゃあ納まりがつかねえ、このお江戸の町の中で、お旗本よりもお国侍の方が鼻息が荒いんだから、もう公方様の天下も末だ」
「なんだと、この野郎」
「なんでもねえ、実地
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