んだか、それがわからないのが不足である。うっかり御馳走になっていいものだかどうだか……米友は一合の酒と鰻の丼を後生大事《ごしょうだいじ》に睨《にら》めていました。
一合の酒と鰻の丼を睨めている米友。
「飲んでしまおうか、それとも飲まずにいた方がいいか、この鰻の丼も食ってしまえばそれまでだが、食わずに置いてみたところでそれまでだ」
米友はいろいろに考えてみたが結局、この無名の贈り主から贈られた酒は一滴も飲まず、丼は一箸《ひとはし》も附けずにほっておく方がよろしいと覚悟をして、床の間の方へ持って行って飾って置きました。飾って置いてそれをやや遠くからまた暫らくながめていたが、
「こうして俺らに酒を飲ましておいて、酔ったところを見計らって計略にかけるつもりだとすると、そんな計略にひっかかっても詰らねえ」
誰も米友を毒殺しようというほどの物好きもなかろうけれど、米友の方でとうとう一合の酒と鰻の丼を敬遠してしまって、それからまた本を見だしていると、
「今晩は」
またも表で人の声、前と同じように女の声。
「誰だ」
「仕出し屋でございます」
「ちェッ、また仕出し屋か」
「まことに相済みませんが、先程のお丼と御酒《ごしゅ》は間違いました」
「ナニ、間違えたって?」
「御近所へ持って上るのを、つい間違えまして申しわけがございません」
「そんなことだろうと思った、俺らに御馳走してくれる奴はないはずなんだから」
米友は跛足《びっこ》を引きながら、いま床の間へ飾って置いた一合の酒と丼、果して手を附けなかったことの幸いを感じて、それをそっくり持って来てやりました。仕出し屋の女中の方では、食われてしまってもこちらの粗忽《そこつ》だから文句のないところへ、米友が手を附けずに返してくれたのだから大へん喜びました。
「気をつけなくっちゃいけねえ、俺らだから手を附けなかったが、ほかの者なら食ってしまうんだ、俺らも実は食ってしまおうかどうしようかといろいろ考えたんだ」
「どうも相済みません」
仕出し屋の女はきまりの悪い面《かお》をして、一合の酒と鰻の丼を持って急いで敷居を跨《また》いで外へ出ました。米友は一合の酒と鰻の丼の香《におい》ばかりで妙な面をして見送っていたが、表を二三間も歩いたと思われる仕出し屋の女中が、
「あれ――」
ガチャン、ピシーンという音。それによって見ると、女中はその辺で
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