しまうと、その後へ立てられた高札がすなわち米友の川へ投げ込んだものであります。その後難《こうなん》の人身御供《ひとみごくう》の意味で留守居を押附けられ、米友は、主人の居間であった贅沢《ぜいたく》な一間でゴロリと横になっている。その傍には例によって槍が一本あります。
 何者が来るか知らないが、仕返しに来たらこの槍で挨拶をしてやる。もとの主人には何か恨むところがあるかも知れないが、自分は疚《やま》しいところがないと、ひとりで力《りき》んでいたけれど、二晩三晩というものは、サッパリ何も手答えがないから、米友も力瘤《ちからこぶ》が弛《ゆる》んできました。四晩目の晩、雨が降って鬱陶《うっとう》しいものだから、行灯《あんどん》の下で、やはり寝ころんで絵草紙を見ていました。
「今晩は――今晩は」
 二声目で初めて気がついた米友は、外で呼ぶのが女の声で、表の大戸を軽く叩いているようでしたから、
「今晩は」
 返事をして次の文句を待っていましたが、不思議なことにそれッきり。
「おかしいな、人を呼びっ放しにして引込むなんて」
「今晩は」
「返事をしているじゃねえか、何か用があるのかい」
「あの、仕出し屋でございますが……」
 ナンダ、いつも弁当を運んでくれる仕出し屋か、弁当ならば、もう食べてしまったから入用《いりよう》はないと思って、
「弁当箱を取りに来たのかい」
「そうではございません、若い衆さんに一口上げてくれと町内から頼まれまして」
「ナニ、俺《おい》らに一口上げてくれって? そんな人はいねえはずだが」
「どうかここをおあけなすって下さいまし」
「どうもおかしいな」
 米友はおかしいと思いながら戸をあけると、いつも来る仕出し屋の女が、丸に山を書いた番傘《ばんがさ》を被《かぶ》って岡持《おかもち》を提げて立っています。
「俺らに御馳走してくれるというのは誰だろう」
「町内の衆でございます」
「町内の誰だろう」
「ただ町内から届けたと、そういえばわかると申しました」
「俺らの方ではよくわからねえ」
 米友は一合の酒と鰻《うなぎ》の丼《どんぶり》を受取りました。仕出し屋の女は帰ってしまいます。米友は、またもとのところへ帰って、鰻の丼と一合の酒を前に置いて、しきりにそれをながめていました。一合の酒も飲んでみたくないことはない、鰻の丼も食慾を刺戟しないこともない、けれども町内の誰がよこした
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