らしくもねえ、まだ未練が残っていたのかい」
「未練というわけじゃあねえが、おれもあの女ゆえにこの腕を一本なくして、生れもつかねえ片輪《かたわ》にされちまったんだ、身から出た錆《さび》だと言えばそれまでだが、どうもこのままじゃあ済まされねえ」
「済まされなけりゃあどうするつもりだ、腕一本で済んだのが見つけもので、すんでに命のねえところを助かったんだ、よけいなチョッカイを出したおつりと思えば腕一本は安いもんだと諦《あきら》めていたくせに、今になって済まされねえとはどうするつもりだ」
「兄貴、あきらめというのは見ず聞かずの上のことだ、ツイ目と鼻の先にいて、こんな悪戯をされた日にゃあ、どうもがんりき[#「がんりき」に傍点]も眼がつぶり切れねえ」
「存外、手前《てめえ》も男がケチだ、向うはちょっと調戯《からか》っただけの御挨拶で、女というやつは、ああもしてみないとバツが悪いんだ。可愛いくらいのもんじゃねえか」
「そこが兄貴と俺との性根《しょうね》が違うところなんだ、ケチな野郎ならケチな野郎でいいから、俺は俺の思うようにしてみてえ」
「それじゃなにか、執念深くどこまでもあの女を附け廻そうと言うんだな」
「そうだ、みんごと、俺はこの片腕であの女をこっちのものにして見せる、兄貴の方に何か差合《さしあ》いがあるかは知らねえが、お前も苦労人だから一番おれの男を立てさせてくれ」
「百、お前がそういう心がけならそれでいいから思うようにやってみろ、その代り、あまり出過ぎると、ちいーっと危ねえことがあるから、そう思え」
「合点《がってん》だ、どのみち危ねえ橋は渡りつけてるんだから、地道《じみち》を歩くのがばかばかしいくらいなもんだ」
「うむそうか。それじゃあ、あの女は近いうちに娘をつれて甲州街道を上って甲府へ行くはずだから、手前も一緒に行ってみたらよかろう、その途中には手前が望む危ねえ橋がいくつもあるんだから、渡れるものなら渡ってみねえ」
「兄貴、お前もついて行くんだろう」
「俺が頼んで行ってもらうような仕事だから、道中は眼がはなされねえ」
「そうなると兄貴と俺と楯《たて》を突くようなもんだな、兄貴を向うに廻して、俺が色悪《いろあく》を買って出るようなものだ」
「まあ、いいようにしてみろ」
七兵衛とがんりき[#「がんりき」に傍点]とはこんな問答をして、少しばかりおたがいに気まずい色を見せて、
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