神の御輿倉《みこしぐら》の中へ自分を隠しておいたということ、それは金助の頼みで、今宵は入道と二人、酔っぱらって来て、自分をまたつれだして妾にするとか女郎に売るとかいっているところへ、突然にムクが現われてこの有様となったということです。
 お君はまた、兵馬と別れて舟から上って以来のことを落ちもなく語ると、兵馬は飽かずに聞いていて、お君の身の上に波瀾の多いこと、そのたびごとにムクの手柄の大きなことに感嘆せずにはおられませんでした。
「ああ、それで思い当った。この犬がどうも尋常の犬でないと思ったら、いつぞや伊勢の古市の町で、槍をよく使う小さな人、あまりに不思議の働き故、頼まれもせぬに槍を合せてみたところ、その傍にいた一匹の黒い犬、その面魂《つらだましい》、ちっとも油断がならなかった。さてはこの犬であったか」
 二人の話はそれからそれと続きました。その時、不意にけたたましい警板《けいばん》の音。
 警板はこの堂のすぐ背後《うしろ》、杉の大木に掛けてあったのを、いつのまに抜け出したか、そこへ上って堂守の入道が力任せに叩いているのです。
「あの音は?」
 兵馬もお君も驚きました。
 二人がその音に驚くと、ムクも首を上げて尾を振ります。
 そうすると、わーという人声。早くもそれと覚《さと》った宇津木兵馬は、
「お君どの、こりゃ大事|出来《しゅつらい》、早く逃げにゃならぬ」
「何でございましょう、あの音は」
「ここの堂守が抜け出してあれを打った、それで村の人を集めている」
「わたしたちは何も悪いことは致しませぬ」
「もとより悪いことはしないけれども、何をいうにもこっちは旅の身、向うは土地馴染のある人、悪い名を着せられても急には明《あか》りが立たぬ、そのうち血気に逸《はや》る土地の人、どのような乱暴をすまいものでもない、今のうちに早く逃げなければならぬ」
 戸の外では人の声が噪《さわ》がしい。
「泥棒が入ったぞ、俺もこの通り傷を負ったが、甲府から来た金助は殺された、お堂の本尊様も明神の御宝蔵も荒された、賊はまだ若い、若い前髪の侍と、女が一人に犬が一疋、その犬が強いから噛《か》まれないように用心さっしゃい」
 警板の木の上で入道がおおいに叫ぶ。
 兵馬はお君を促《うなが》して一目散に逃げ出しました。
 大並木をくぐり抜けて、堤を駈け下りると釜無河原。
 兵馬はついに堪《こら》え兼ねて、お君を背に負って河原を走りました。提灯《ちょうちん》や松明《たいまつ》で追いかけて来る大勢の人。
「それ河原へ下りたぞ、向うの岸へ合図をしろ」
 ようやく川の流れへ来て宇津木兵馬、浅瀬を計り兼ねて暫らく思案に暮れていたが、そのうちに乗り捨てられた川船の一隻を、ムク犬が見つけて飛び込むと、兵馬はこれ幸いと同じくその舟へ飛び乗って、お君を下ろすとともに、竹の竿を取って岸を突きました。
 舟は難なく釜無川の闇を下って行きます。
 ほど経て舟を着けたのは高田村というところ、そこで陸《おか》へ上りました。
 高田村で舟を捨てた時分には、もう夜が明けていました。鰍沢《かじかざわ》まではいくらもない道程《みちのり》、兵馬はお君のために道を枉《ま》げて鰍沢まで来て宿を取りました。
 それから兵馬は、甲府へ沙汰してお君をもとの軽業の一座へ送り返そうとしているうちに、困ったことにはお君が病気になってしまいました。
 行手に心の急ぐ兵馬も已《や》むことを得ず、それを介抱せねばならなくなりました。
 幸いにお君の病気は大したことはなく、四日ばかりするうちにすっかりなおってしまい、お君はやっと愁眉《しゅうび》を開いていると、そこへ甲府から便りがありました。その便りはまたも兵馬とお君の二人を当惑させるものでありました。
 お君が入って来た軽業の一座は、あれから散々《ちりぢり》になってしまって、またも旅廻りをしているか、江戸へ帰ったか、それさえ消息《たより》がないということで、お君は落胆《がっかり》しました。兵馬も困りました。
 お君は、仕方がないから、わたしはムクを連れて江戸へ帰ってみようと言い出しましたけれど、それはずいぶん危険なことと言わねばならぬ。けっきょく兵馬はお君を当分の間この宿へよく頼んで預けておいて、自分だけが山入りをすることにきめ、お君は兵馬に気の毒でたまらないけれども、その好意に従って、暫らく鰍沢の町に逗留することになりました。
 今朝、お君を残して山入りをした兵馬。
 ムクを連れて兵馬を送って行って別れた最勝寺前、お君には兵馬の面影《おもかげ》が胸を掻《か》きむしるほどに迫って来て、一人では居ても立ってもいられなくなりました。



底本:「大菩薩峠3」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年1月24日第1刷発行
   1996(平成8)年3月1日第3刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年10月3日公開
2004年3月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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