悪銭《あくせん》身に着かずということになると幸先《さいさき》がよくねえからな」
「悪銭というのもおかしなものだが、それじゃお前は性質《たち》のいい資本《もとで》を持っているのかい」
「一文なしだ、江戸へ出る小遣《こづかい》もねえくらいのものだ」
「腕もなし、資本もなし、それで真人間《まにんげん》になろうというのはちっと無理だ、いま奉公に出ればと言って、その腕じゃあ誰も使い手はあるめえ」
「なんとかなるだろうよ、運だめしだから、一文なしで出かけて行ってみよう、途中でのたれ死をしたらそれまでよ」
「その了簡ならそれでいい、自分はそれでいいけれど、もし人のかかわり合いで金がなければ男が立たねえというような時節があったら、遠慮なく俺の土蔵から出して使ってくんねえ」
「兄貴、大層なことを言うが、お前の土蔵というのはどこにあるんだ」
「それはいま言う裏街道では大菩薩峠の上、青梅宿《おうめじゅく》の坂下、江戸街道の丸山台、表の方では小仏峠《こぼとけとうげ》の二軒茶屋の裏の林の中と、府中のお六所様《ろくしょさま》の森の後ろと日野の渡し場に近いところ。まあこの絵図面を見ておくがいい、江戸から持って来た金は裏の方へ蔵《しま》っておく、甲州で稼《かせ》いだのは表の方へ預けておくんだ、幾らになっているか自分でもその額はわからねえが、ああしておいても利息がつくわけではねえから、入用《いりよう》の時はいつでも出して遣って貰いてえものだ」
「なるほど、兄貴の仕事はなかなか手堅いや、こうして娘をあっちこっちへかたづけておけば、いざという時どこへ飛んでも居候が利く。だが、この絵図面は見ねえ方がよかったな、これを見たために、せっかくの娑婆気《しゃばけ》が立ちおくれをして、どうやらもとのがんりき[#「がんりき」に傍点]に戻ってしまいそうだ」
「俺はそんなつもりじゃねえんだ、手前にこの金を器用に使ってもらえば金の冥利《みょうり》にもなるし、罪ほろぼしにもなるんだから、それで手一杯に地道《じみち》な商売をして、世間に融通をしてもらいてえんだ」
「それじゃ、どのみちこの絵図面は貰っておこう。しかし、これに手をつけるようじゃあ、がんりき[#「がんりき」に傍点]もやっぱり畳の上では死ねねえ。それじゃ兄貴、これから出かけるから、壮健《たっしゃ》でいてくれ」
「そうか、そうきまったら引留めもしねえが、途中ずいぶん気をつけて、猪や狼に食われねえように」
「裏街道を行くつもりでいたが、夜道は表の方が無事だから、やっぱり表を突っ切ってやろう、今から出りゃ夜明けまでに江戸へ入るのは楽なものだ。そのつもりで、さっき、握飯《むすび》を三つ四つ拵《こしら》えてもらってあるから、あれを噛《かじ》って江戸まで行けば、それから先はお膝元だ。どっちへころげるかがんりき[#「がんりき」に傍点]の運試し、兄貴、またあっちで会おう」
「江戸へ行って居所が知れたら、神田の明神様へ額を納めておいてくれ、め[#「め」に傍点]の字を書いた絵馬《えま》を一枚、そのうらへ処番地を書いて、お堂の隅っこへ抛り込んでおいてくれ、訪ねて行くから」
「合点《がってん》だ」
「おや、表がなんだか騒々しいな」
二人は言い合せたように耳を傾けて、
「半鐘《はんしょう》が鳴るぜ」
「火事だ火事だと言ってるよ。姉さん、火事はどこだい」
「一蓮寺でございますよ」
「一蓮寺? おや、喧嘩だ喧嘩だと言ってるぜ」
「なるほど、喧嘩らしい、火事と喧嘩とお祭祀《まつり》と一緒に来たんじゃあ事だ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は片一方の手で脚絆《きゃはん》をひねくる、それを七兵衛ははたから穿《は》かせてやって、身軽な扮装《いでたち》が出来上りました。
二人が外へ首を出してみると、火の子はこの家の上を撩乱《りょうらん》と飛んでいます。
それとはまた違ったところでその翌日、最初にあの騒ぎの口火を切った役割の市五郎が寝ているところへ見舞に来た金助、
「役割、どうでござんす、痛みますかね」
「うん」
「飛んだ御災難で」
「いまいましいやつらだ」
「役割を見損なって木戸を突くなんて、盲蛇《めくらへび》物に怖《お》じずとはこのことだ。その代り、さんざん、敵《かたき》を取って、やつらを空裸《からはだか》にしてやりましたから、それで胸を晴らしておくんなさいまし。身から出た錆《さび》とは言いながら、あいつらこそ、小屋は焼かれる衣裳道具は台なし、路頭に迷うような騒ぎでてんてこ[#「てんてこ」に傍点]舞をしていやがる、ざまア見ろ」
「狼が出て、ひどい目に遭《あ》ったてえじゃあねえか」
「狼には弱りましたね、怪我あしたやつらは大部屋でいちいち手当をしていますが、片輪者《かたわもの》がだいぶ出来上りそうで、面《かお》を噛み潰されていかにも始末にいかねえのが五六人
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