」
「どこへ行くといって当《あて》はないんだ」
「どうもお前さんは、口の利きっぷりやなにかがおかしな人だよ、心持に毒のなかりそうな人だよ。ほんとに行くところがなければ、わたしの家へおいでなさいな、親方に話して上げるから。わたしの親方の家は本所の鐘撞堂新道《かねつきどうしんみち》にあるのよ」
六
福士川から徳間《とくま》入りをした宇津木兵馬と七兵衛は、机竜之助を発見することなくして、かえってがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を発見してしまいました。
「兄い、気をしっかり持たなくちゃいけねえ」
「あッ、抜いちゃいけません、先生、お抜きなすっちゃいけません、抜いてしまっちゃ納まりがつきません」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は引続いて囈言《うわごと》ばかり言っています。
この山入りでは、僅かにがんりき[#「がんりき」に傍点]を得ただけで、山道をもとの通りに下って、一行はまた富士川の岸に出ました。
富士川をのぼる舟は追風《おいて》を孕《はら》んだ時はかえって、下る船よりも速いことがあります。福士からこの船に乗った兵馬と七兵衛とがんりき[#「がんりき」に傍点]と三人は、早くも甲府に着きました。
机竜之助のいるところはかの白根《しらね》の麓。こうしているうちに秋も闌《た》けてしまって、雪にでもなっては道の難儀が思いやられる。兵馬は心急がれていたけれども、名にし負う山また山、相当の用意なくては入ることのできないところであります。
甲府の南の郊外にある一蓮寺《いちれんじ》というのは遊行念仏《ゆぎょうねんぶつ》の道場で聞えた寺。
おりからそこの鎮守《ちんじゅ》にお祭礼《まつり》がありました。
「江戸名物、女軽業大一座《おんなかるわざおおいちざ》」――本堂の屋根よりも高く幕張《まくば》りをした小屋。泥絵具《どろえのぐ》で描いた看板の強い色彩。高いところへ登って片足を撞木《しゅもく》にかけて逆さにぶらさがっているところ、裃《かみしも》を着て高足駄を穿いて、三宝《さんぽう》を積み重ねた上に立っている娘の頭から水が吹き出す、力持の女の便々《べんべん》たる腹の上で大の男が立臼《たちうす》を据えて餅を搗く、そんなような絵が幾枚も幾枚も並べられてある真中のところに、
「所作事《しょさごと》、道成寺入相鐘《どうじょうじいりあいのかね》」――怪しげな勘亭流《かんていりゅう》、それを思い切って筆太に書いた下には、鱗《うろこ》の衣裳《いしょう》を振り乱した美しい姫、大鐘と撞木と、坊主が数十人、絵具が、ベトベトとして生《なま》な色。
そのあたりは押し返されないほどの人混みの中へ、一人の身扮《みなり》卑しからぬ武士が伴《とも》をつれて割込んで来ました。
頭巾《ずきん》こそ被っているけれども、これは紛《まぎ》れもなく神尾主膳の微行姿《しのびすがた》であります。
「ははあ、江戸名物女軽業大一座」
神尾主膳もまたこの絵看板を打仰ぐと、
「評判でござりまする、女というので評判なのでござりまする、太夫から下座《げざ》に至るまでみんな年頃の女、それが評判で、ごらんの通り大入りを占めておりまする」
草履取《ぞうりとり》が説明を申し上げると、
「なるほど、ともかく江戸から出て来たものに違いはなかろう、見物して参ろう、跟《つ》いて来い」
木戸口に立つと、
「どうやら御重役のお微行《しのび》らしい」
木戸番が頭取《とうどり》に耳打ちをしました。
この軽業の一行は両国に出ていた一行。米友を黒ん坊に仕立てた一座。女の軽業《かるわざ》足芸《あしげい》の類《たぐい》は多くは前の通りで、新たに加わったお君が「道成寺」を出すということが人気でありました。
「君ちゃん、御贔屓《ごひいき》があるよ」
楽屋ではお角《かく》が長い煙管《きせる》から煙を吹いて、
「着物を着替えて面《かお》を直したら、ちょっと御挨拶に行っておいで。正面の桟敷《さじき》に頭巾を被って、お伴《とも》の衆と一緒に見物しておいでなすったあのお方さ、お前さんでなければならないとおっしゃるんだよ、早く行って御機嫌を取結んでおいで。ザラにあるお侍さんとは違って、ことによったら御城代様か御支配様あたりのお微行《しのび》かも知れないよ。早く行っておいで、柳屋に待っていらっしゃると御家来衆がお沙汰に来て下すったんだから」
「お伺いしなくては悪いでしょうか、誰か代りに行ってもらいとうござんすねえ」
「そんなことはできません、お前をお名指しなんだから」
「それでも親方さん、お酒を飲めの、泊って行けのと御冗談をおっしゃると、わたしにはお取持ちができませんからね」
「いい時分にはこっちから迎えにやりますから、安心して行っておいでなさい」
「お鶴さんか、お富さんが一緒に行って下さるといいけれど」
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