。ほんとに忌々《いまいま》しい畜生ったら」
金助は兵馬に礼を言うことを忘れて、犬の悪口ばかり言います。
「いったい、この村のやつらが悪い、あんな性質《たち》の悪い狂犬《やまいぬ》を放し飼いにしておくのがよろしくねえ、叩き殺してしまやがりゃいいんだ」
今度は村の人へ飛沫《とばっちり》。
この男はしきりに狂犬呼ばわりをするけれど、兵馬は決してあの犬を狂犬とは思っておりません。
「さて、お前さんはこれからどこへ行かれるな」
「ついそこの竜王村というところまで参りますんで」
「帰りに、また犬が出たらなんとなさる」
「脅《おどか》しちゃいけません、もう懲々《こりごり》でございます」
「しかし帰りには必ず出て来る」
「冗談《じょうだん》じゃありません、こんど出やがったら、村の若い衆を大勢たのんで叩き殺してしまいます」
「そんなことをするとかえってよろしくない。察するのにお前は、何かあの犬に怨《うら》みを受けるようなことをした覚えがありそうじゃ」
「驚きましたね、いくら人間が下等に出来上っていたからと申しまして、まだ犬に恨みを受けるようなことをした覚えはございません」
「犬というものは、三日養わるれば生涯その恩を忘れぬ代り、ひとたび受けた恨みもまた死ぬまで覚えているということだ。どうかするとお前は、あの犬に対して意地の悪いことをした、その祟《たた》りを受けて見込まれたものと、どうもそうしか思われぬ」
「そんなことは決してございませんよ、第一、あんな大きな黒犬を見るのは今日が初めてなんでございますから。初めて見たものに恨みを受けるはずがないじゃございませんか、狂犬《やまいぬ》の人食《ひとくら》いに違いございませんよ」
「とにかく、わしもあちらへ行く者、竜王村まで一緒に行きましょう」
兵馬は金助を連れて竜王村へ入ります。この時分から時雨《しぐれ》の空模様が怪しくなってきました。
「降らなけりゃようございますね」
宇津木兵馬は一緒に竜王村の方へ入る途《みち》すがら話して行くと、この金公という折助がいかにもくだらない人間であることを知りました。下手《へた》に優しく話してゆくと、直ぐ附け上ってしまう、そうして今の先、木の上で助けてくれ助けてくれと叫んだことなどは打忘れて、自分の得意げなことをベラベラ喋《しゃべ》る。兵馬はなるほどくだらない人間だと思って、いいかげんに話していると、自分が川柳《せんりゅう》をやることだの雑俳《ざっぱい》の自慢だのを、新しそうな言葉で歯の浮くように吹聴《ふいちょう》する。兵馬はいよいよくだらない折助だと思ったが、ただくだらないばかりではなく、兵馬の話しぶりを見ては折々ひっかけるようなことをする。これでは犬に逐われるのも無理はないと、胸に不快な思いをしながら、ともかくも竜王村へ入って来ました。
竜王村へ入って村を横切ると釜無川《かまなしがわ》の河原へ出ます。信玄の時代に築かれたという長さ千間の一の堤防《だし》。その上には大きな並木が鬱蒼《うっそう》と茂っている。右手には高く竜王の赤岩が聳《そび》えている。金公が先に立ってその堤防の並木の中へ分けて行く時分に、さきほどから怪しかった時雨《しぐれ》の空がザーッと雨を落してきました。
金助は、兵馬の先に走って、同じ堤防の並木の中の、とある神社の庭へ走り込んで、
「こんにちは、こんにちは」
戸を叩いたのは三社明神の堂守《どうもり》の家。
「金公かい」
破れ障子から面を出したのは腰衣《こしごろも》をつけた人相のよくない大入道。
「木莵入《ずくにゅう》いたか」
ここは神社であるはずなのに、この堂守は怪しげな僧体をしているから、兵馬は変に思っていると金公が、
「さあ、どうかお入りなすっておくんなさいまし、これはわっしどもが大の仲よしで木莵入と申しまする、見たところは気味の悪い入道でございますが、附合ってみると気の置けないおひとよしの坊主でございます」
金公は金公で、この坊主を捉《つか》まえて木莵入木莵入と言い、坊主は坊主で金公を捉まえて金公金公と呼捨てにしているところを見れば、なかなか懇意な間柄らしいが、兵馬はここで雨宿りをするつもりで中へ入って見ると、炉の中には釜無川で取れる川魚が盛んに焼かれてあるし、貧乏徳利がいくつも転がっています。
雨はなかなかやみそうもないから、兵馬もつい勧められるままに草鞋《わらじ》を取って上へあがりました。
そうしているうちに、坊主と金公が碁を打ちはじめました。見ていると金公もかなりに打てる、坊主はなかなか強い、金公に三目置かして打っているがまだ坊主の方がずっと強い。金助はしきりにキザな面《かお》をして例の歯の浮くような文句と一緒に石を並べて、時々キュウキュウ言わせられていると、坊主はそのたびごとに高笑いをして金公を頭ごなしにばかに
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