はや拾われてしまっているはず、こうと知ったらあの女の面《かお》をよく見ておけばよかったものをと、米友はいまさらに悔《くや》みます。悔んだところで、暗いところから出て来たものだから面の見様もなかったし、ただ声に聞覚えがあるといえばあるのだが、それだって別段、耳に立つほどの声でもなかったから、声だけでは、いま眼の前へその女が現われて来たところでわかろうはずはありません。
「小作りで華奢で、歩《あん》よのお上手な旦那と言やがった、ばかにしてやがら」
 米友は昨晩の女の言草《いいぐさ》を思い出して腹を立てました。そんなに冷かされては米友だって腹の立つのは無理もないようなものだが、それよりも、人の懐中物を奪おうとするような性質《たち》のわるい女が江戸の市中に徘徊《はいかい》しているかと思えば、それが憤慨に堪えないのです。
「向うでは知ってるだろう、向うでは、俺《おい》らの歩きつきまで見ているんだから、俺らが柳原を通れば、もしあの女が正直な女でありさえすりゃ、拾った金を返してくれるにきまっているが、夜鷹でもするくらいの奴だから、拾ったところで知らん面《かお》をしているにきまってる、そうなると、俺らはまたあの家を追出《おんだ》されるんだ、どっちへ行ってもホントに詰《つま》らねえ」
 米友は且《か》つ憤慨し、且つ悲観してしまって、柳原の昨晩騒ぎのあったところまで来て見たけれども、河岸《かし》に材木が転がっていたり葭簀張《よしずばり》がしてあったりするくらいのもので、別段そこに人が住んでいる様子もないし、「ちょいと、様子のよい旦那」と言って呼びかけるような女の気配も見えないから、ポカンとして立ち尽していました。
 十両と少しの金を尋ね出さなければ、米友は御主人の家へ帰ることができないのです。
 神田と浅草の方面をあてもなく歩き廻っていたが、当《あて》のないことはどこまで行っても当がないから、一ぜん飯を食べて腹をこしらえて、再び柳原通りの和泉橋《いずみばし》の袂《たもと》へ戻って来ました。
「詰らねえ」
 この時、後ろの方から蓙《ござ》のような巻いたものを抱えて、三人連れの女がやって来ました。その三人の女をよく見ると、その一人は手拭を被《かぶ》らないで、頭の上へ御幣《ごへい》のような白紙を結んでいます。その白紙がひらひらと河岸の夕風で踊っているところが、なんとなく目につきました。
「ち
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