見に来たんだい」
 半畳《はんじょう》が飛ぶ。

 自分の楽屋へ逃げて来た印度人、楽屋にはお玉のお君が胡弓《こきゅう》を合わせていました。
「どうしたの、友さん」
「駄目だ、駄目だ」
 ここへ来ると印度人は楽な日本語です。
「まだお前、引込む時間ではないのだろう」
「いけねえ」
 印度人は、お君の傍へ倒れるように坐って首を振りました。
「どうしたんですよ」
 お君は胡弓をさしおいて心配そう。
「ばれちゃった、ばれちゃった」
「まあ」
 お君も安からぬ色。
「誰か、お前が印度人でないと言う人があったの」
「うん」
「じゃあ何かい、お前が、宇治山田の友さんのお化《ば》けだということを、誰か見物が言ったの」
「そうは言わねえけれど、知っている人に見つかっちゃった」
「知ってる人? それは誰」
「それは、俺《おい》らが世話になったお医者さんだ」
「お医者さん? 伊勢《あちら》のお医者さんかえ」
「いいや、いつかもお前に話したろう、俺らが隠《かくれ》ヶ岡《おか》で突き落されて、一ぺん死んだやつを生かしてくれたお医者さんだ」
「それでは、あの下谷の長者町にいらっしゃるという先生かい」
「そうだ、その道庵先生が見物に来ているのだよ」
「まあ、そりゃ驚いたね。それだってお前、なにも心配することはありゃしないよ、お前の方では道庵先生だとわかっても、先生の方ではお前が友さんだとわかる気遣《きづか》いはないからね。傍にいるわたしだって、そう言われなければわからないのだから、心配しなくてもいいじゃないか」
「ところが駄目なんだ」
「わかっちまったのかい」
「なんしろ、俺の身体は頭の上に毛が幾本あって、足の蹠《うら》に筋がいくつあるということまで、ちゃあんと呑込んでる先生だから、一目で見破られちまった」
「そりゃ困ったね。でもね、先生は悪い方じゃないんだろう、だからここでお前を素破抜《すっぱぬ》いて恥を掻かすようなことはなさりゃすまいから」
「そんなことはしねえ、素破抜きなんぞはやりゃあしねえが、あはははと大きな声で笑う」
「そりゃ、知った人が見りゃおかしいだろうよ」
「そうして、『黒、しっかりやれ、俺が附いてる』なんと言うのだ、あの先生、酔っぱらっているからね」
「何と言ったってかまやしないじゃないか、怖《こわ》いことはないだろう」
「だってお前、俺《おい》らには気恥しくってやっていられね
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