顫《ふる》えが見えるのが不思議です。
「黒さん、しっかり頼むよ」
道庵先生に言葉をかけられるたびに、印度人がドギマギして、ほかの人が見てもおかしいと思うくらいに、槍の扱いがしどろになってしまうから見物が、
「なんだか危なっかしい手つきだ」
幸いに面の色は真黒だから、表情が更にわからないけれど、どうも黒さんの調子が甚だ変なのであります。それでもやっと数番の槍投げを了《お》えて、
「次は槍飛び!」
口上がかかると、
「しっかりやれ、道庵がついてるぞ!」
道庵がまた大きな声。
槍飛びの芸当にかかるはずの印度人が、この時ふいと舞台から逃げ出しました。
「おい黒さん」
口上言いが驚いて呼び止める。それを耳にも入れないで、印度人は、槍を突いて跛足《びっこ》を飛ばして楽屋《がくや》の方へ逃げ込みます。
「おや、黒さん、どうしたんだい」
口上言いや出方《でかた》が飛んで行って、印度人を連れ戻そうとするのを、印度人は頓着《とんちゃく》なしに楽屋に逃げ込んでしまいます。
いよいよ本芸にかかろうとする前に、肝腎《かんじん》の太夫さんが黙って逃げ出したのだから、
「どうしたんだ」
「怪《おか》しいな」
「急病でも出たのかな」
「ひょいと出て、ひょいと引込んでしまやがった」
「おかしな奴だよ」
「出方が追っかけて行かあ」
「あれ、楽屋へ逃げ込んでしまったぞ」
「どうしたわけなんだ」
「やあい、黒、どうしたんだ」
「黒!」
「黒ん坊!」
「早く出ろ! 黒やあい」
見物は、ようやく沸き立ってきました。
「東西」
口上言いが、沸き立つ見物の前へ出て来て、
「ただいま、印度人が急病さし起りまして、暫らく楽屋に休憩とございます、なにぶん熱国より気候の違った日本の土地に初めて参りましたこと故……」
「あはははは」
口上の申しわけ半ばに道庵が笑う。口上は腰を折られて変な目をして道庵を見たが、また申しわけをつづけて、
「食当り水当りのために頭痛眩暈《ずつうめまい》を致し、なにぶん芸当相勤め兼ねまするにより……」
「その病気なら俺が癒してやる」
またしても道庵の差出口《さしでぐち》。
「当人病気休息の間、代って手品水芸の一席を御覧に入れまあする」
「馬鹿野郎」
見物が承知しませんでした。
「手品なんぞは見たくねえ、早く黒を出せやい、黒ん坊を出せ」
「新宿の八丁目から、わざわざ黒ん坊を
前へ
次へ
全58ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング