ここは篠井山《しののいざん》の山ふところ、お徳というのは先日、峠の上で竜之助を助けて来た「山の娘」たちの宰領《さいりょう》であります。
お徳は美しい女ではないけれども、いかにも血色がよく働きぶりのかいがいしい三十女。ここでも紺の筒袖《つつそで》を着て、手拭を被《かぶ》って砧を打つと、その音が篠井山の上、月夜段《つきよだん》の奥までも響いて、縁に腰かけた竜之助の足許から股《もも》のあたりまでが、軽い地鳴りで揺れるのがよい心持です。
「ほんとにお見せ申したいくらいでござんす、今日のこのお月様を」
お徳は砧の手を休めて、竜之助の方を向いて絹物の裏を返す。
「せっかくなことで。月も花も入用《いりよう》のない身になったけれど、それでも物の音だけはよくわかります。いや、眼が見えなくなってから、耳の方が一層よくなったようじゃ。そうして御身がいま打つ砧の音を聞いていると、月が高く天に在って、そしてそこらあたり一面には萩の花が咲きこぼれているような心持がします」
「萩の花は咲いておりませぬけれど、ごらんなさいませ、この通り月見草が……」
「月見草が……しかし、やっぱり見ることはできぬ」
「そうでござ
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