男、変装に巧《たく》みで、さまざまの容姿《なり》をして、壬生《みぶ》や島原の間、京洛《けいらく》の天地を探っていた男。
「ともかく、湯から上ろう、もっと委《くわ》しい話を聞かしてくれ」
 山崎譲は後刻を約して、そこを立ち去ってしまうと、それと入り違えのようにお徳が入って来ました。
「そうしておいで遊ばせ、今お背中を流して上げますから」
 湯から出ようとする竜之助の傍へ寄って、手拭を固く絞ってお徳は、その肩へ手をかけて背中を洗ってやろうとします。
「それは気の毒」
 竜之助はお徳のなすままに任せて辞退もしない。
 お徳は筒袖をまくり上げて、裾が湯に濡れないように気をつけながら、竜之助の背中を流しはじめていると、この温泉の上の方で賑わしい人の声。
「あれは何だろう」
「あれはお慶《めで》たいことでござんす」
「はあ、何か人寄せがあるな」
「この山の上の望月《もちづき》様という郷士《ごうし》様のお邸へお嫁様が参りなさるそうで」
「婚礼があるのか、道理でさいぜんから時々賑わしい人の声が聞えると思うた」
「望月様は、この辺の山を預かる御大家でござんすから、もうこの近所の人はみんなよばれて朝から大騒ぎ、今夜もまた夜徹《よどお》し飲み明かしなさるのでござんしょう」
「それは盛んなことじゃ。そうして嫁御寮《よめごりょう》はもうこっちへ着いたのか」
「お嫁さんは前の日、わたしもちらと見ましたが、山家《やまが》には惜しい器量のお嫁様でござんした」
「どこから来たのじゃ」
「同じ甲州でござんすけれども、ここからはだいぶ離れておりまして、萩原領の八幡《やわた》村というところからお輿入《こしいれ》でござんすとやら」
「八幡村?」
 竜之助は何をか思い当って、
「八幡村というのは、石和《いさわ》と塩山《えんざん》に近いところではないか」
「左様でござんす、左様でござんす、あちらの入《いり》でございます」
「その八幡村からここへ嫁入りに来たのか」
「はい、向うもなかなか大家だそうでございますが、こっちはそれよりも大家で、お眼が見えればすぐおわかりでござんすが、白壁作りの黒塀《くろべい》で、まるでお城のような構え、権現様よりもずっと前から、この近辺の金の出る山という山を、みんな預かっているお家柄でござんすから、ああしてお祝いが幾日も続くのでござんす」
「なるほど」
 いま会った山崎譲の話では、関東も関西も鼎《かなえ》のわくような騒ぎ、四海の中《うち》が浮くか沈むかという時勢であるそうな。それにこの山里では、お嫁取りの飲み明かし歌い明かし、そぞろにその泰平《のどか》さにほほ笑まれるのであったが、その来る嫁というのが甲州八幡村と聞いて竜之助は、また思わでものことを思わねばならぬ。それは、わが身にとって悪縁の女、お浜の故郷が、やはりその八幡村であったからであります。
「そのお嫁さんを一目見たいものだな」
「それはお目にかけたいくらいの美しいお嫁様で」
 竜之助は冗談のように言うと、お徳は本気で答える。
「八幡村というところには、わしの親類……でもないが知合いがある」
「ああ、そうでござんすか、それではことによると、あのお嫁さんも御存じのお方かも知れませぬ」
「いいや知るまい、私はその八幡村というところへ行ったことはないのじゃ、ただ懇意な人の口から聞いて知っているばかり」
「左様でござんすか、いずれ明日にも、お嫁様のお里帰りがあるでござんしょうから、その時ごらんになると……そのとき誰かにお聞きなすってみましたら」
「別に聞いてみたいこともないのだが、なんとなくそのお嫁様を一目見たいような気持がする」
 その夜、竜之助は山崎譲と夜《よ》更《ふ》くるまで語り合ったが、山崎は竜之助にいろいろと忠告をしたり、早く故郷へ帰るように、道中の不便があらば、知合いの甲府の勤番《きんばん》に頼んでやると親切に言ったが、竜之助はなんとも別に定まった返事をしなかったけれども、先を急ぐ山崎は若干の見舞金と、甲府の勤番へ宛てての竜之助の身の上依頼状などを認《したた》めておいて、その翌日、ここを立ってしまいました。山崎を送った竜之助は、ひとり宿の二階の欄干に凭《もた》れていると、
「あれ、お嫁様が」
という遽《にわ》かの騒ぎ。
「あれが望月様の若奥様。まあごらんなさい、あの髪の毛、あのお面色《かおいろ》、あの髪飾りの鼈甲《べっこう》の、水の滴《したた》るような襟足《えりあし》の美しさ、あのお紋付、あのお召物、あの模様……ほんにお館様《やかたさま》のお姫様とても、これほどのことはおありなさるまい」
 姦《かしま》しい人の声。ははあ、これが、いわゆる八幡村から来たという嫁御寮、ただでさえ物見高い嫁入騒ぎ、このあたりの大家ということであるから、物珍らしい山家の人には、さながら信玄公の姫君でも御入来《
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