したのでもあろう」
「そうではござんせぬ、奈良の帝様が、たしかにその地へお移りになったということでござんす、その帝様は女のお方様で……」
「女の帝……奈良朝で女の帝に在《おわ》すのは」
竜之助は自分の持っている国史の知識を頭の中から繰り出して、お徳の語るところと合せてみようとして、
「奈良《なら》七重《ななえ》……奈良朝は七代の御代《みよ》ということだが、そのなかで女の帝様は……」
竜之助の思い浮ぶ知識はこれだけのもので、その七代のうちにどのお方が女帝におわしまし、その御名《ぎょめい》をなんと申し上げたかというところまでは届かないのです。
「その帝様《みかどさま》が、これへお越しになりまして、この土地は山国で塩というものがござんせぬ故、帝様は天にお祈りなされると、地から塩が湧いて出て、今も塩《しお》の井《い》というのがその土地にあるのでござんす。それから片葉《かたは》の蘆《あし》というのがござんす、帝様がこの土地へおいでになってから、旦暮《あけくれ》都の空のみをながめて物を思うておいであそばした故、お宮のあたりの蘆の葉がみんな片葉になって西の方へ向いていたということでござんす」
身延《みのぶ》と七面山《しちめんざん》の間の裏山を越えて薬袋《みなえ》というところへ出た時分に、お徳は右手の方を指しながら、
「あちらから来る道が、富士川岸を伝うてやはり奈良田の方へ通うのでござんす、帝様へ諸国から貢物《みつぎもの》を献上なさる時は、いつもこの道を通ったとやらで、その帝様が奈良田でお崩《かく》れになりました時、それと聞いて土地の人が、その貢物を横取りしてしまって俄《にわ》かに富んだから、その村を飯富《いいとみ》村といって、あちらにはまた御勅使がお通りになった御勅使川《みてしがわ》というのがござんす」
お徳は、やはり奈良の帝がこの土地へおうつりになったという伝説をそのままに受入れているらしいが、竜之助は、ただ伝説として聞いておくだけに過ぎません。
「お宮のあるところから十里四方は、いつの世までも年貢お免《ゆる》しのところ、権現様《ごんげんさま》も湯の島へ御入湯の時に御会釈《ごえしゃく》でござんした。たとえ罪人でもあの土地へ隠れておれば、お上《かみ》も知って知らぬふりをなさんすとやら」
お徳は伝説をようやくに事実の方へ近づけてきます。
奈良田の皇居ということは国史以外の秘説であります。
奈良王この地に御遷座ありしという伝説は、ここにお徳の口から伝えらるるばかりではなく、幾多の古書にも誌《しる》されてあるので、その奈良王とは弓削道鏡《ゆげのどうきょう》のことであるとの一説、ただに奈良の帝と伝えられている一説、また明らさまに人皇《にんのう》第四十六代|孝謙《こうけん》天皇と申し上げてある書物もあるのであります。
孝謙天皇は女帝におわします。弓削道鏡の悪逆、和気清麻呂《わけのきよまろ》の忠節などはその時代の出来事でありました。
けれども、天皇がこの地に御遷座ありしというようなことは、正史のいずれにも見らるるところではなく、ただこの地の伝説だけに残っているのであります。
村の中程に皇居の跡があるということ、塩の井、片葉の蘆、飯富村、御勅使川、十里四方万世無税、家康湯の島へ入湯のこと、みんなそれに附きまとうた伝説でもあり事実でもあるが、なおそのほかに、帝にお附の女房たちが、散々《ちりぢり》になって、このあたりの村々で亡くなった、それを神に祭って「后《きさき》の宮《みや》」と崇《あが》めてあること、帝が崩御《ほうぎょ》あそばした時、神となって飛ばせ給うところの山を「天子《てんし》ヶ岳《たけ》」と呼び奉ること、そんなこんな伝説がいくつも存在しているこの山の奥、人を隠すにも隠れるにもよいところ、ことにその地には百二十度の温泉がある――お徳の温い心、いつも冷たくなっている竜之助の心を、そこで温かにしてやろうという世話ぶり、その世話ぶりがいつまで続くか。竜之助が温かい人になることができないまでも、お徳のような温良な山の女を冷たい人にはしたくないものです。
湯の島へ着いて、ゆっくりと温泉に浸った机竜之助。
「ああ、いい気持だ」
木理《もくめ》の曝《ざ》れた湯槽《ゆぶね》の桁《けた》を枕にして、外を見ることのできない眼は、やっぱり内の方へ向いて、すぎこし方《かた》が思われる。
「三輪明神の社家《しゃけ》植田丹後守の邸に厄介になっていた時分と、ここへ来て二三日|逗留《とうりゅう》している間とが、同じように心安い。どうも早や、おれも永らく身世《しんせい》漂浪《ひょうろう》の体じゃ、今まで何をして来たともわからぬ、これからどうなることともわからぬ。それでも世間はおれをまだ殺さぬわい、いろいろの人があっておれを敵にするが、またいろいろの人があってお
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