の花と一緒にお月見をしよう」
「それがよい。そんならおじさんの傍へ行って、縁側へ腰をかけてお月見をしながら、また戦人《いくさにん》の話を教えておもらいなさい」
「そうしよう。おじさん」
 子供は勇んで竜之助の傍へ来る、竜之助は黙ってその頭を撫《な》でる。
「おじさん、お前は眼が見えないのだろう?」
「ああ、眼が見えない」
「それでお月見をするのはおかしいね」
「それでもその月見草でさえも、眼がなくてお月見をしているではないか」
「そうだな、眼がなくても月が見えるだろうか知ら」
「それは見える」
「では、この月見草の花は、どんな色をしているか当ててごらん」
「黄色い色をしている」
「よくわかるね。それではおじさん、坊がここへ字を書くから、その字を読んでごらん」
 子供は棒切れを取って竜之助の足許《あしもと》の地面へ大きく文字を書いて、
「さあ、何という字を書いた」
「それは読めない」
「それごらん」
「どうにも、おじさんにはそんなむずかしい字は読めぬ」
「教えて上げようか」
「教えてくれ」
「いや」
「教えてくれ」
「いや」
「その字が知りたい」
「教えればおじさん、戦人《いくさにん》の話をしてくれる?」
「焦《じ》らすものではない、早く教えてくれ」
「蔵太郎や、おじさんを焦らさないで早く教えてお上げ」
「それでは教えて上げよう、いま書いたのは月という字」
「ああ、月という字――そう言おうと思っていたところ」
「聞いてから言っても駄目。それではおじさん、戦人のお話をしておくれ」
「おじさんに戦人の話をしてもらうより、お母さんに歌を聞かしておもらい」
「お母さんに歌を?」
「お前のお母さんは歌が上手であった。話は家の中でするもの、歌はこういうところでうたうのがよい」
「それではお母さん、歌をうたって聞かせておくれ」
「母さんに歌などがうたえますことか。それはおじさんが嘘《うそ》をおっしゃるのですよ」
「嘘ではない。峠から下りて来る時、山駕籠の中でうつつに聞いていたがよい声であった。あれをひとつ、この月の晩にここで聞かしてもらいたい」
「まあお恥かしいこと、あんなのは歌でもなんでもありゃしません、魔除《まよけ》にああして声を出し歩くだけのことで」
「そうではない、土地の歌は土地の人の口から聞かねば情合《じょうあい》がない、あの、甲州出がけのという歌、あれを駕籠の中で聞いていた時に、わしはなんとなく腸《はらわた》に沁《し》みるような心持がした、ぜひもう一度、聞かしてもらいたい」
「甲州出がけの吸附煙草《すいつけたばこ》、涙湿《なみだじめ》りで火がつかぬ……あれでございますか」
「そうそう、それにもう一つは何と言ったか、生れ故郷の……という歌」
「生れ故郷の氏神《うじがみ》さんの、森が見えますほのぼのと……あれでございますか」
「それそれ、どうかあれをひとつ聞かしてもらいたい」
「ああいう時の調子では音頭取《おんどとり》も致しますけれど、改まってどうしてお聞かせ申すことができますものか」
「そのように言わずにぜひ頼む……月があっても光が見えぬ、花があっても色の見えぬ身には、声と音を聞いて楽しむよりほかに道がない、どうぞその歌を聞かして拙者の心を慰めてもらいたい」
「そうおっしゃられると……」
 お徳は竜之助の面《かお》を仰いで見て、気の毒そうに、
「それでは、歌ってお聞かせ申しましょう、お笑いなすってはいけませぬ」
「どうぞ頼みます」
 お徳は槌《つち》を取り直して軽く拍子を取りながら、
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甲州出がけの吸附煙草
涙じめりで火がつかぬ
[#ここで字下げ終わり]
 旅をして歩く時に興に乗じてうたう歌、危険な山坂を超ゆる時、魔除《まよけ》を兼ねて歌いつけの歌、心なく歌っても離愁《りしゅう》の思いが糸のように長く引かれる。
「ホホホ、こう歌いますと、なんとなく情合《じょうあい》が籠《こも》っているようでござんすけれど、この替歌《かえうた》に……」
と言ってお徳は直ぐに、
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甲州出る時ゃ涙で出たが
今じゃ甲州の風もいや
[#ここで字下げ終わり]
と歌い、
「こうなってしまいますから薄情なもので……まだわたしたちの中でうたいます歌にこんなのが」
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道中するからお色が黒い
笠を召すやら召さぬやら
[#ここで字下げ終わり]
 それから最後に、
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生れ故郷の氏神さんの
森が見えますほのぼのと
[#ここで字下げ終わり]
 三十を越したお徳も、土地の歌をうたう時は乙女の心になる、鄙《ひな》の歌にも情合が満つれば優しい芽が吹いて春の風が誘う。

         六

 山の娘たちはいったん帰って来たけれど、また暫らくして旅に出かけなければならなくなりました。今度は郡内《ぐ
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