を自分の口へ入れて噛《か》む。
竜之助を抱いてお徳は、口うつしに薬を飲ませる。
男に許すことを知らない山の娘も、人を助ける時には大胆な挙動をする。よし、これが竜之助でなくして、道に倒れた悪病の乞食であったにしても、その一命を取り返す必要があれば、山の娘は必ずこういうことをするのです。
無論、一行の中には、それを怪しむものもなければ笑うもののありようはずがない。
「はーっ」
と気が開《ひら》けた竜之助。
「お気がつきましたかいなあ」
「有難い」
「お気を確かにお持ちなさいませ」
「もう大丈夫」
竜之助は身を起して、道標の傍に立とうとしたけれど足がふらふら。
「お危のうござんす」
山の娘たちが押える。
「このお刀はあなた様の……」
「ああ、そう。いや、どうも有難い」
「拭いて上げましょう」
山の娘は手拭《てぬぐい》で刀を拭いて竜之助に渡す。
「ここに人の片腕が斬り落されてござんすが、こりゃどうしたわけでござんすかいな」
「ああ、それは……」
竜之助は刀を鞘《さや》に納めながら、
「悪い奴が出たから斬ったのじゃ」
「悪い奴、その悪い奴は、片腕だけを残してどっちへ参りましたかいな」
「いずれへ逃げたか知らぬ、斬ると逃げた、そのままわしは眠くなってここへ倒れて寝た故に、前後のことは更にわからぬ」
「悪い奴でござんすなあ。皆さん、その手をここへ持って来て、お武家様にお目にかけるがよいぞや、お見覚えがありなさんすかも知れぬ」
「それもそうでござんすな」
お浪が拾って来た、がんりき[#「がんりき」に傍点]の片腕。
「どうぞこの悪い奴の片腕を、篤《とく》とごらん下されましな」
「はは、わしは眼が見えぬのじゃ、この通り不自由者じゃ」
「お目がお不自由……まあ、そうでござんしたか、それは失礼なことを」
山の娘たちは、今更のように竜之助の面を見る。
「ああ、皆さん、この片腕はなあ」
腕を持って来たお浪が、何か気がついたように叫ぶ。
「その片腕が、どうなさんした」
「この片腕には入墨がしてありますぞいな。この入墨は甲州入墨といって、甲州者で悪いことをしたのが、甲府の牢屋《ろうや》へつながれて追い出される時に、この入墨をされるのじゃわいな」
「まあ、どこにそんな入墨が」
「これ、この通り、手首から五寸ほどのところに二筋の入墨」
なるほど、斬り落された腕にはその通りの入墨がある。
「案《あん》の定《じょう》、悪い奴。悪い奴なればこそ、こうして腕を切られても逃げ了《おお》せたと見えますなあ」
「それはそうとあなた様、お不自由なお身で、おつれもござんせぬにここへおいでなさいましたかいな」
「つれはあったけれど、やはりその騒ぎで逃げてしまった」
「そうして、ここはお関所のない山路、どうしてこんなところへ」
「これから行けば身延へ出られるとやら。身延へ参詣して甲州街道へ案内すると言うてつれて来られたが」
「左様でござんすかいな、なんにしてもこの雨の降るところでは……皆さん、どうして上げましょうぞいな、このお方様」
「幸い、乗り捨てなさんしたあのお駕籠、あれへお乗りなすったら、わたしたちが交《かわ》る交る舁《かつ》いでお上げ申して、ともかくも人家のあるところまで……」
三
東海道筋から甲州入りの順路は、岩淵《いわぶち》から富士川に沿うて上ることであります。甲州へ入ると、富士川をさしはさんで二つの関があります。向って右の方なのが十島《とおじま》、左が万沢《まんざわ》で、多くは万沢の方の関を通ります。宇津木兵馬もまた同じく万沢の関へ通りかかりました。兵馬は要路の人から証明を貰っているから、いつ、どこの路をも滞《とどこお》りなく通過することができるので、七兵衛は兵馬と一緒に歩く時のみはその従者として通行するが、一人で歩く時は、到るところのお関所を超越してしまいます。
「あいつはたしかに甲州者なんでございます」
兵馬に向って七兵衛が言う。
「どうしてそれがわかります」
「言葉にも少し甲州|訛《なま》りがありますのと、それからあいつの手に入墨があるのでございます、そいつが甲州入墨と、ちゃんと睨《にら》んでおきましたよ」
「甲州入墨というのは?」
「手首と臂《ひじ》の間に二筋、あれこそ甲府の牢を追放《おいはな》しにされる時に、やられたものに違いございません」
「甲府を追放されたものが甲州へ入るとは、ちと受取りがたい」
「なに、あいつらはそんなことに怖《おど》っかする人間ではございません。なんでもこの辺の間道《ぬけみち》を通って、甲州入りをしたものに違いございませんが、あいつが盲目《めくら》と足弱をつれて、どういう道行《みちゆき》をするかが見物《みもの》でございます。これから川岸を西行越《さいぎょうご》え、増野《ますの》、切久保《き
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