まり得るようにしてあるから、たとえいかなる悪漢でも、その中の一人を犯すことはできないのでした。故に山の娘は、知らぬ他国へも平気で出入りして怖るることがないのであります。それとまた、山の娘の一徳は秘密を厳守する力の優れたことで、彼等の間において約束された秘密は、それは大丈夫が金石の一言と同じほどの信用が置けるのであります。女は秘密の保てないものという定説が、山の娘だけには適用しない、彼等はその仲間うちの秘密を他に洩らすことのないように、得意先の秘密と人の秘密をも洩らすようなことは決してないのです。大塩平八郎の余党の中には甲州へ落ちたものが少なからずある、その中の幾人かは、この山の娘たちによって隠され保護されて一身を全うしたという説は、あながち嘘ではないようです。
ちょうど降りかかった時雨《しぐれ》を合羽《かっぱ》で受けて、背に負うたそれぞれの荷物を保護しながら、十余人のこの山の娘が、駿河路《するがじ》から徳間峠《とくまとうげ》へかかって来たのは同じ日の夕方でありました。
「さあ、峠の上へ着きましたぞい」
「福士《ふくし》まで行って泊らずかい」
組の頭《かしら》は、さきに竜之助、お絹の一行が乗り捨てた山駕籠のところまで来て、
「まあ、ここに駕籠が二つも乗り捨ててあるが、どうしたものであろうなあ」
「物扱いの悪い人たちじゃ」
その駕籠の周囲へ山の娘の一隊が集まる。
「身延様参《みのぶさままい》りは、折々この道を通る人がありますから、それが……はて、煙草入が落ちていたり、駕籠の中には蒲団《ふとん》や包みがそのままであってみたり……」
彼等はようやく異様な眼で、そこらあたりを見廻し、
「おお、怖い、落葉の中に光る物が……」
最も早く見つけたのは、組の中でもいちばん若い人。
「あれあれ、血の塊《かたまり》が……」
山の娘の一人が絶叫する。
「血の塊と言わんすか」
駈けて行って見ると、
「おう、気味の悪い、人の片腕、こりゃ人間の片腕ではございませぬかいなあ」
落葉の上の片腕、血は雨に打たれてドロドロにとけて流れている。
「ああ、ここには人が一人殺されて倒れていますわいなあ」
「ナニ、人が殺されて?」
山の娘は、今度は走り出さないで、十余人が一度にかたまってしまう。針鼠《はりねずみ》は危険に遭うた時は、敵へ向っては反抗しないで、かえってわが身を縮める。山の娘たちもまた、危難の暗示ある時は、遠のいていたものが必ず密集する、そうして組の頭《かしら》の取締りの者がまず口を開くまでは、なんとも言わないのが例となっているのでした。
「皆さん」
真中に立った頭の女は三十ぐらいの年頃で、血色がよくて分別のありそうな人。
「はい」
一同は神妙に返事をする。
「身延参りをなさんす旅の人が、今これで追剥《おいはぎ》にあいなさったようじゃ。これから先の道が危ない。皆さんたち甲州入りをなさる気か、それとも駿河の方へ帰りますか」
「それは姉さん次第」
「それなら皆さん、駿河へ帰るも甲州へ入るも人家までは同じぐらいの道程《みちのり》、いっそ甲州へ入ることに致しましょう」
「承知しました」
「わたしが先へ立って参ります、お浪さん後からおいでなさい、いちばん若い人を真中にして」
「心得ました」
「わたしが音頭《おんど》を取りますから、人家へ出るまで皆さん、歌をうたって下さいまし」
「よろしゅうございます」
「それで、人家へ着いたなら、お役人の方へ御沙汰《ごさた》をしなくてはならぬから、一通り、あの人の殺されているところを調べて参りましょう。さあ一緒になって」
一団になった山の娘は粛々《しゅくしゅく》として道標の傍《かたわら》へやって来る。
「長い刀……」
頭のお徳は竜之助が捨てた刀を落葉の中から拾い取る。
「この片腕……」
血が雨で洗われている片腕――さすがに気味を悪がって面《かお》を反《そむ》ける。
「この人は、こりゃお武家じゃわいな」
恐る恐る竜之助の傍へ寄る。
「水、水が飲みたい」
「え、えッ!」
山の娘たちは一足立ち退く。
「生きていますぞいな、このお人は」
「なんぞ物を言いましたぞいな」
年嵩《としかさ》のお徳とお浪とは、竜之助の傍へ再び寄って来て、
「もし」
「うーむ」
「もし」
背を叩《たた》いて呼んでみて、
「このお人は生きてござんす、その片腕を切られたのは、このお人ではござんせぬ、薬を飲まして呼び生《い》けて上げましょう」
薬はお手の物。
「水があるとな」
「どこぞ捜《さが》して来ましょうか」
若いのが一人出ようとするから、
「いいえ、離れてはなりませぬ、一足なりと一人でここを出てはいけませぬ。皆さん、笑いなさんな、このお人に、わたしが口うつしでこの薬を飲まして上げるから」
山の娘の頭《かしら》のお徳は、気付けの薬
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