、がんりき[#「がんりき」に傍点]お絹の逃げたのは甲斐の領分、双方ともに後をも見ずして逃げ去ったあとに、ひとり残る竜之助。
刀の血振《ちぶる》いをして道標の柱へ手をかけてほっと一息。
やがて持っていた刀をそこへ投げ出すと斉《ひと》しく、道標の下へ崩折《くずお》れるように倒れて、横になって落葉の上へ寝てしまいました。
昨夜の雨がまだ降り足りないで、富士の頭へ残して行った一片の雨雲がようやく拡がって来ると、白根山脈の方からも、それと呼びかわすように雨雲が出て来る。それで、天気が曇ってくると富士颪《ふじおろし》が音を立てて、梢《こずえ》の枯葉を一時に鳴らすのでありました。
竜之助は道標の下に倒れて、昏々《こんこん》として眠っている間に、サーッと雨が降って来ました。時雨《しぐれ》の空ですから、雲が廻ると雨の落ちるのも早い。
ちょうど雑木《ぞうき》の蔭になったところで、いくらか雨は避けられるようになっているが、葉末から落ちる時雨の雫《しずく》がポタリポタリと面《かお》を打つので竜之助が、うつらうつらと気がついたのは、あれから、やや暫らくの後のことでした。
「雨が降っているようだな」
まだ本当に正気には返らないで、昏倒《こんとう》から醒《さ》めかかった瞬間の心持は、連々《れんれん》として蜜のように甘い。時雨の雫がポタリポタリと面を打つことが、かえって夢うつつの間を心持よくして、いったん醒めかかってまた昏々として眠くなるうちに、
「ああ、水が飲みたい」
で、また我に返りました。
せっかく、よい心持で、いつまでも眠りに落ちようとするのに咽喉《のど》はしきりに水を飲みたがって、
「水、水、水」
譫言《うわごと》のように言いつづけたが、誰も水を持って来てくれそうな者はなく、水を欲しがる竜之助の面へは雨の雫がポタリポタリと落ちて来るばかりです。
こういう時の夢には、滾々《こんこん》としてふき出している泉や、釣瓶《つるべ》から釣られたばかりの玉のような水、草叢《くさむら》の間を潺々《せんせん》と流れる清水などが断えず眼の前に出て来るもので、
「あ、有難い、水」
と言って竜之助は、それを手に掬《むす》んで口へ持って来ようとすると、煙のようになくなってしまいます。
竜之助は、これもかなり長い時の間、夢うつつの境に水を求めて昏倒していましたが、村方の方からは駕籠だけも取り
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