くような心持がしますから、
「あ、危ねえ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、楢の木の蔭に居堪《いたたま》らないで、身軽に飛んで、高さ一丈余りある国境《くにざかい》の道標の後ろへ避ける。
「是《これ》より甲斐国《かいのくに》巨摩郡《こまごおり》……
是より駿河国《するがのくに》庵原郡《いおはらごおり》……」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の飛んだ方へ竜之助が向き直る、そうして徐々《そろそろ》と歩み寄る。
「あ、冗談じゃねえ、先生、眼が見えるんだね」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、この時、本当にまだ竜之助の眼が見えると思ったくらいですから、この道標の蔭からいずれへ逃げてよいかわからない。甲斐国巨摩郡と書いた方へ出れば右を斬られる、駿河国庵原郡と書いた方へ出れば左を斬られる、こうしていれば道標もろとも前から梨子割《なしわ》り。後ろを見せれば背を割られる。進退|窮《きわ》まって道標の蔭から竜之助の隙《すき》をうかがう。
そこへ歩み寄って来た竜之助。がんりき[#「がんりき」に傍点]はたまらなくなって、
「おい、御新造様《ごしんさま》、先生は気が違ったぜ、なんの咎《とが》もねえわっしをお斬りなさろうと言うんだ、あ……危ねえ」
この時、水を割るようにスーッと打ち下ろした竜之助の刀。絶体絶命で脇差へ手をかけながら左へ飛び抜けたがんりき[#「がんりき」に傍点]の右の手を、二の腕の半ばからスポリ、血が道標へ颯《さっ》と紅葉《もみじ》。
「あ痛えッ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、斬り落された切口を左の手で着物の上から押えて横っ飛び。
「狂人《きちがい》に刃物とはこれだ、手が利いているだけに危なくって寄りつけねえ、御新造様、早く逃げましょう、ぐずぐずしているとお前様も殺《や》られちまいますぜ」
尋常ならば眼を廻すべきところ、腕一本落して命を拾い出そうとするがんりき[#「がんりき」に傍点]は、
「早くお逃げなさいと言うに」
「どうしたんでしょう、まあ」
お絹は、さすがに狼狽《ろうばい》して途方に暮れているのを、
「どうもこうもありゃしねえ、早くわっしの逃げる方へお逃げなさい」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は峠道を飛び下りる。お絹はそれと同じ方へ飛び下りる。駕籠屋は、ただ白刃の光を見ただけで疾《と》うに逃げてしまいました。駕籠屋の逃げたのは駿河の国
前へ
次へ
全50ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング