いた時に、わしはなんとなく腸《はらわた》に沁《し》みるような心持がした、ぜひもう一度、聞かしてもらいたい」
「甲州出がけの吸附煙草《すいつけたばこ》、涙湿《なみだじめ》りで火がつかぬ……あれでございますか」
「そうそう、それにもう一つは何と言ったか、生れ故郷の……という歌」
「生れ故郷の氏神《うじがみ》さんの、森が見えますほのぼのと……あれでございますか」
「それそれ、どうかあれをひとつ聞かしてもらいたい」
「ああいう時の調子では音頭取《おんどとり》も致しますけれど、改まってどうしてお聞かせ申すことができますものか」
「そのように言わずにぜひ頼む……月があっても光が見えぬ、花があっても色の見えぬ身には、声と音を聞いて楽しむよりほかに道がない、どうぞその歌を聞かして拙者の心を慰めてもらいたい」
「そうおっしゃられると……」
お徳は竜之助の面《かお》を仰いで見て、気の毒そうに、
「それでは、歌ってお聞かせ申しましょう、お笑いなすってはいけませぬ」
「どうぞ頼みます」
お徳は槌《つち》を取り直して軽く拍子を取りながら、
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甲州出がけの吸附煙草
涙じめりで火がつかぬ
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旅をして歩く時に興に乗じてうたう歌、危険な山坂を超ゆる時、魔除《まよけ》を兼ねて歌いつけの歌、心なく歌っても離愁《りしゅう》の思いが糸のように長く引かれる。
「ホホホ、こう歌いますと、なんとなく情合《じょうあい》が籠《こも》っているようでござんすけれど、この替歌《かえうた》に……」
と言ってお徳は直ぐに、
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甲州出る時ゃ涙で出たが
今じゃ甲州の風もいや
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と歌い、
「こうなってしまいますから薄情なもので……まだわたしたちの中でうたいます歌にこんなのが」
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道中するからお色が黒い
笠を召すやら召さぬやら
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それから最後に、
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生れ故郷の氏神さんの
森が見えますほのぼのと
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三十を越したお徳も、土地の歌をうたう時は乙女の心になる、鄙《ひな》の歌にも情合が満つれば優しい芽が吹いて春の風が誘う。
六
山の娘たちはいったん帰って来たけれど、また暫らくして旅に出かけなければならなくなりました。今度は郡内《ぐ
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