い有難いことなれど、農事やその他の妨げになるようなことはないか、それがいつも心配で……」
「またしてもその御心配、それはお止めになされませ、そういうことにかけては私共は、これで気楽な身分でございます」
 兵馬は七兵衛の素姓《すじょう》をよく知らないのです。ただ自分の娘にしているお松のために尽す行きがかりで、自分に尽してくれるのだと、こう思っています。
 一緒に旅をしていても、不意に姿を見せなくなることがある。そうかと思うと不意にどこからともなく飛んで帰る。
「うちの方は屋敷も田畑も都合よく人に任せて来ましたから、これから当分、伊勢廻り上方見物《かみがたけんぶつ》をするつもりで、あなた様のお伴《とも》をして相当のお力になるつもりでございます」
と言って、上方からついたり離れたりしているのであった。気が利いていて足が迅《はや》い、兵馬にとってはこの上もない力であります。
「宇津木様、私共はあなた様のお力になるというよりは、こうして旅を巡《めぐ》って歩くのが何より楽しみなのでございますから、どうか打捨《うっちゃ》ってお置きなすって下さいまし。それからもう一つは、あのお松の爺父《おじい》さんというのを切った奴、それを探してやりたいんで。こうなってみると、おたがいに意地でございますから、首尾よくあなた様が御本望《ごほんもう》をお遂げなさるまではお伴《とも》していたいのでございます」
「いつもながらそれは有難いお心、本望遂げた上で、また改めてお礼のできる折もありましょう」
「いや、その時分には、私共はまたどこへ旅立ちしているかわかったものではございませんから、御本望をお遂げあそばしたとて、お礼なぞは決して望んではおりません。その代りに宇津木様、あなた様のお口から七兵衛という言葉を、一口もお出し下さらぬようにお願い申しておきたいんでございます」
「そりゃ妙なお頼みだが」
「ちと変っておりますけれど、あなた様が御本望をお遂げあそばします間の七兵衛と、あなた様が御本望をお遂げあそばしました後の七兵衛と、七兵衛に変りはございませんけれど、七兵衛の名前に大した変りがございますから、どうか七兵衛、七兵衛とおっしゃらないように」
「ははは、いよいよおかしいことを言われる」
 兵馬は何の合点《がてん》もなく、ただ笑うばかり。
「ははは、おかしいようなことでございますが、なかなかおかしいことでは
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