出さねばよかった。ここで堪忍《かんにん》したところが竜之助の器量が下るわけでもあるまい、またこの人々相手に腕立てをしてみたところで、その器量が上るわけでもあるまいに。さりとて竜之助のは、なにも彼等の挙動が癪《しゃく》にさわったから、それで恨みを含んでいる体《てい》にも見えません。
 思うに武術の庭に入ったために、竹刀を見るにつけ、道具を見るにつけ、その天成の性癖が勃発《ぼっぱつ》して、ツイこんなことになったのでしょう。
「ナニ、頭を打ってみたい? あの竹刀でこの拙者の頭を? おのおの方、面白いではござらぬか」
「それは面白い、望み通り竹刀を貸して遣《つか》わしたがよかろう」
「それ、望み通り竹刀を一本」
「かたじけない」
 竜之助は貸してくれた竹刀を受取って少し退いて、
「これは軽い」
 洗水盤《みたらし》の石を発止《はっし》と打つと、竹刀の中革《なかがわ》と先革《さきがわ》の物打《ものうち》のあたりがポッキと折れる。
「やあ!」
「これは役に立たぬ、もう一本貸してもらいたい」
 折れた竹刀をポンと投げ出す。
「無礼な仕方」
 尺八を吹いた武士は怒る。
「おのれ!」
 木剣を拾って、机竜之助の天蓋の上から、脳骨微塵《のうこつみじん》と打ち蒐《かか》る。
 鳥居の台石へ腰をかけた竜之助、体《たい》を横にして、やや折敷《おりし》きの形にすると、鳥居|側《わき》を流れて石畳の上へのめって起き上れなかった男。
「憎《にっく》き振舞《ふるまい》」
 一座の連中のなかには老巧の人もいたけれど、こっちにも落度《おちど》があるとはいうものの竜之助の仕打《しうち》があまりに面憎《つらにく》く思えるから、血気の連中の立ちかかるのを敢《あえ》て止めなかったから、勢込んでバラバラと竜之助に飛び蒐《かか》る。
 鳥居の台石からツト立った竜之助は、いま後ろへ流れた男の投げ飛ばした木剣を拾い取ると、それを久しぶりで音無しの構え。
 社の玉垣《たまがき》を後ろに取って、天蓋は取らず。
 五社明神の境内はにわかに大きな騒ぎになってしまって、参詣の人、往来の人、罵《ののし》り噪《さわ》いで立ち迷う。
 そこへ仲人《ちゅうにん》に割って出でたものがあります。何者かと見ればそれは女。
「まあまあ皆様、お待ち下さいませ」
 思いがけないこと、それは妻恋坂の花の師匠のお絹でありました。
 お絹の仕えた神尾の先殿様《せんとのさま》の墓はこの浜松の西来院《さいらいいん》にあって、そうしてこの浜松の城下はお絹の故郷でありました。
 伊勢参りから帰り、お絹はそのお墓参りをしてここに逗留《とうりゅう》することも久しくなりました。
「危ない、女の身で、引込んでいさっしゃれ」
「そんなことをおっしゃらないで、お待ち下さいまし」
 お絹は竜之助と浜松藩の武士の間へ身を以て入り込んでしまいました。
「さきほどから拝見致しておりますれば、ほんに詰《つま》らない行きがかり、殿方が命のやりとりをなさるほどのことでもござんすまい、女の身で出過ぎたことでござんすが、ただ通りがかりの御縁、どうぞこの場はお任せ下さいまし。それとも喧嘩をなさるなら、このわたくしをお斬りあそばして、それから後になさいまし。女をお斬りあそばしたところでお手柄にもなりますまい、どうかお任せ下さいまし」
 そこへ一座のうちの老巧連が飛んで来て、
「いや、おのおの方も大人げない、旅の者一人を相手にして、勝っても負けても手柄にはなるまい、あとは拙者共に任せるがよい」
 そこでこの喧嘩は、無事に引分けとなってしまいました。
 竜之助はそのうちに、消えてなくなるようにさっさと明神の社内を出てしまいました。
 続いて社前を出たお絹、しばらく竜之助の後ろ姿を見送っていましたが、伴《とも》の女中を呼んで、
「お前、あの虚無僧さんを追いかけて、わたしの家へ来るように言っておいで、丁寧《ていねい》にそう言って、一緒にお連れ申しておいで、もし聞かなかったら、どちらへおいでなさるのですかといって、その行先を尋ねてごらん、それも言わなかったら、どこへ泊るかそれを見届けておいで」

         二

 その晩、机竜之助とお絹とは、西来院の傍《かたわら》なる侘住居《わびずまい》で話をするのが縁となりました。
「どちらかでお見かけ申したように思いますよ」
 二人の間には火鉢があって、引馬野《ひくまの》を渡って来る夜風が肌寒いから、竜之助は藍木綿《あいもめん》の着衣の上に大柄《おおがら》な丹前《たんぜん》を引っかけていました。
「江戸へ帰ろうと思う」
 まぶしそうな眼をして、独言《ひとりごと》のように言う。
「お急ぎではござんすまい」
「別段に急ぎもせぬが」
「それでは、こちらに御逗留なさいませ、わたしも江戸へ帰ろうか、それともこちらで暮そうかと考えて
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