がんりき[#「がんりき」に傍点]が小腰をかがめて笠の紐を解く。
「七兵衛のお友達? そうしてわたしに何か御用が……」
「へえ、別に用もございませんが、少しばかりお話し申し上げたいことがありまして」
「何のお話ですか」
「ここじゃお話しにくいんで……」
「なにもそんなに話し悪《にく》いことはありやしますまい、ここでお聞き申しましょう、歩きながらお聞き申しましょう」
「左様でございますか、そんならそれでよろしゅうございます。いったい、あなた様はあの七兵衛という男が、今どこへ何しに行ったと思召《おぼしめ》しなさいますか」
「七兵衛がどうしました」
「お前様はすっかりあの七兵衛に出し抜かれておしまいなすった、ここでお話しにくいと申し上げたのは、それなんで。私共は、いちいち七兵衛の魂胆《こんたん》を喋《しゃべ》ってしまいたいと思いますが、こんなところでひょっとして人の耳に入っても大事はございませんか」
「ようござんすとも、誰に聞かれたってちっとも苦しいことはありません、言ってごらん」
「なに、大したことじゃございません、あなた様とお連れのお乗物、あの中のは、たしか、なんと言ったけな、机竜之助か、そんな名前の剣術の出来る先生でしょう」
「それがどうしたというの」
「どうもしませんけれど、お気の毒なことにはあの先生も今頃は、首になっていらっしゃることでしょう。それを知らずに、こんなところをブラブラしておいでなさるあなた様の気が知れませんね」
「何ですと、あの人が首になる? そりゃまた、どうしたわけでしょう」
「どうしたわけだか、そりゃお前様の方が胸に覚えがおありなさるでしょうから、申し上げるまでもありませんが、まあ勿体《もったい》をつけずに底を割ってお話し申し上げれば、こういうわけなんでございます。七兵衛と私とが、お前様とあの盲目《めくら》の先生とをつけ覘《ねら》ったのは昨日や今日の話じゃあございません、浜松の大米屋以来のことで。私の方は初手《しょて》からの他人だが、七兵衛の方はお前様にお近づきがある、その上もう一人の盲目の剣術の先生、あれが大変なもので、七兵衛はあの先生を尋ねるためにこの東海道は幾度歩いたか知れねえと言うんで。そういうわけでございますから、道中こっちの方にはちゃんと仕組みが出来ていたんで。巧《うま》く企《たくら》んで、あの先生をこっちのものにしてしまう、細工は隆々《りゅうりゅう》、今日という今日は、きれいに生捕《いけど》ってしまって、さいぜん駕籠にお乗りなすったままそっくりお連れ申して、そこで今頃は三保の松原へ連れて行かれて、首になっているだろうと、こういうわけなんで」
「わたしにも似合わない、すっかり老爺《おやじ》に引っかけられてしまった」
 お絹は駈け出して、前《さき》の茶店の方へ行こうとすると、
「まあ、待ちなさいまし」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はその袖を控えて、
「まだ、お話し申し上げることがあるんでございます、それだけでは、まだほんの序《じょ》の口《くち》で、盲目の剣術の先生や七兵衛が今どこにいるか、それもおわかりになりますまい」
「三保の松原だと言ったじゃないか」
「三保の松原には違いありませんが、三保の松原も広うございますから。なあに、まだ大丈夫でございます、首になるような気遣《きづか》いはございません、とにかく一通りお聴きなすって」
「早く話してごらん」
「ここまでは私も七兵衛の方へついて片棒《かたぼう》を担《かつ》いでやりましたが、これから一番、裏切りをして、お前様の方へ忠義を尽してみてえんで」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、お絹を人通りの少ない木立の方へ引張り込むように並んで歩いて、
「ナニ、七兵衛の友達といったからって通り一遍の仲なんですから、どっちへ転んだって、大した義理が欠けるわけじゃございません、あの野郎にこれだけ尽しておけば、これからまた持役《もちやく》を替えて踊ってみてえんで……その机竜之助という剣術の先生、それは敵持《かたきも》ちのお方でござんしたね、敵と覘《ねら》う相手がちょうど船で清水の港へ来ているんで。そうして七兵衛と打合せがしてあって、江尻《えじり》の宿の外《はず》れで名乗りかけることにしておいたのを、お前様方が久能山道へお廻りなすったものですから、趣が変って三保の松原という段取りになったので……それで鶴屋へ送り込むようにおっしゃったあの乗物を、途中から七兵衛が行って折戸《おりど》の方へ曲げて、三保の松原へ連れ込んだところなので。そこには敵《かたき》の相手の、なんと言いましたか、まだ若い人だそうで、その人が待っている、その上に荒っぽい船のやつらが網を張って逃げられねえようにしている、そこのところへ、あのお乗物がすっぽりと陥《はま》り込んだというわけですから、いい気
前へ 次へ
全30ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング