た人。銀ごしらえの脇差《わきざし》を打込《ぶっこ》んだ具合、笠の紐の結び様から着物の端折《はしょ》りあんばい、これもなかなか旅慣れた人らしいが、入って来ると笠の中から七兵衛をジロリと見ました。
「婆さん、いくらだね」
七兵衛は壺焼の代を払おうとします。
「六十文いただきます」
「ここへ置くよ」
七兵衛は百文ばかりの銭《ぜに》を抛《ほう》り出して出ると、
「婆さん、いくらだえ」
銀ごしらえの脇差も同じように壺焼の価《あたい》を聞く。
「四十文でよろしゅうございます」
「ここへ置くよ」
同じく百文ばかりの金を投げ出してこの男が出たのは、七兵衛がもう薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠の上りにかかろうとする時分でありました。
幸いに晴れていて、富士も見えれば愛鷹《あしたか》も見える。伊豆の岬、三保の松原、手に取るようでありますが、七兵衛は海道第一の景色にも頓着なく、例の早足で、すっすと風を切って上って行く。
七兵衛をやり過ごして、同じ栄螺《さざえ》の壺焼屋から出た旅の男は、これもすっすと風を切って上って行く。七兵衛も足が早いがこの男も足が早い。みるみる七兵衛に追いついてしまいました。
「どうも結構なお天気でよろしゅうございますな」
お愛想《あいそう》を言って、つと七兵衛を通り抜いてしまう。
「へえ、よいお天気で……」
と七兵衛は返事をしたものの、さっさと自分を抜いて行く銀ごしらえの男の歩きぶりを見ると癪《しゃく》に触《さわ》りました。この俺を抜いて歩く奴、小面《こづら》の憎い振舞をしたものかな、よしそれならばこっちにも了簡《りょうけん》があると、七兵衛は足に速力を加えて歩くと、見るまにまた銀ごしらえの脇差を追い抜いてしまいます。
「どうもお天気がようがすな」
七兵衛は、銀ごしらえの脇差を尻目《しりめ》にかけて通ると、
「へい、よいお天気で……」
その男もまた、負けない気で足に馬力をかけました。
二人は、ついに雁行《がんこう》して歩き出してしまいました。
七兵衛は、妙な奴だと思うから別に言葉もかけず、そうかと言ってこうなると抜かれるのも癪だから、ずんずん歩いて行くと、その男もまた口を結んで七兵衛と押並ぶようにして歩いて行く。
はて、今まで旅をしたが、こんな奴に会ったことがない、別に怖《こわ》いことも気味の悪いこともないが、足の早いのが癪だ、そうして、自分に足で戦いを挑《いど》むような仕打ちがいよいよ癪だ。
しかし、いよいよ峠を下り切るまでこの男は、七兵衛より後にもならず先にもならず、ほとんど相並んで歩いて来たが、ほら[#「ほら」に傍点]村へ出ると身延道《みのぶみち》。
「旦那、私はここで失礼を致しますよ、はい、身延へ参詣に参りますもので」
七兵衛に挨拶して法華題目堂《ほっけだいもくどう》から右、身延道へ切れてしまいました。
七兵衛は、興津《おきつ》の題目堂で変な男と別れてから、東海道を少し南へ廻って、清水港《しみずみなと》へ立寄り、そこで小半時《こはんとき》も暇をつぶしたが、今度は久能山道《くのうざんみち》を駿府《すんぷ》へ出て、駿府から一里半、鞠子《まりこ》の宿《しゅく》もさっさ[#「さっさ」に傍点]と素通《すどお》りをして上へ上へとのぼって行くのでしたが、ちょうど、鞠子の宿の池田屋源八という休み茶屋の前を通りかかると、
「もしもし、それへおいでなさる旅の旦那へ」
茶屋の中から言葉をかけたものがあります。
「エエ、お呼びなさいましたのは?」
七兵衛ふりかえると、店先でとろろ汁を食べているのは、薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠《さったとうげ》で競争をしかけた、銀ごしらえの変な男。
「これはこれは」
さすがの七兵衛も、少し面喰《めんくら》って立ち止まると、
「まあ、おかけなさい、ここは名物のとろろ汁、一つ召し上っておいでなさいまし」
「お前さんは身延へ行くとお言いなすったが……」
「ええ、身延へお参詣をすましてその帰り路なんでございます」
「冗談《じょうだん》じゃねえ」
「へへ、それは冗談でございます、身延へ行くつもりでしたけれども、途中でまた気が変ったものでございますから」
「そうだろう、それでは俺《わし》もひとつ、とろろ汁をいただきましょう」
身延へ切れたのは嘘《うそ》、やっぱりこの変な男も上《かみ》へのぼって行くものでありました。それにしても早い、自分がちょっと清水港で用を足している間に、本街道を早くもかけ抜いて、ここでとろろ汁を食っているのだから、七兵衛もなんだか一杯食わされたような気持がするのでありました。
「これから名代《なだい》の宇都谷峠《うつのやとうげ》へかかるのでございますから、草鞋《わらじ》でも穿《は》き換えようじゃあございませんか」
「そうしま
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