からよく聞えたけれども、わたしはどうしてもあのとき出て行けなかったのだよ」
「出て来ない方がよかったよ、出て来れば捉《つか》まっちまうんだからね。そうするとね、もうその時はお役人に追い詰められていたんだから、仕方がないから俺《おい》らは海へ飛び込んじゃった、海へ飛びこんでね、時々頭をぽかりぽかりと出して様子を見ながら泳いでいたんだよ。そうするとね、伝馬船に乗せられてお前がやって来るじゃないか。こりゃよかった、与兵衛さんがお前を舟で逃がしてくれたのだと思ったから、俺らはうれしまぎれにその舟へ飛び上って、君ちゃんと言って抱きついたら、それが大違い」
「ああ、それでわかった、その人はわたしじゃなかったけれど、わたしがいま姉妹のようにしているお松さんという人なのよ」
「そうか、なんしろ暗いところで、年頃の似た娘が一人乗っていたんだから、嬉しまぎれにお前だとばかり思っちゃった」
「それをね、お松さんと船頭さんがね、大船へ帰って来て一つ話にしているのですよ、舟で河童《かっぱ》に出会《であ》ったって」
「河童じゃねえ、俺《おい》らなんだよ」
「でも舟では今でも河童にしてしまっているよ」
「ナニ、河童じゃねえ、俺《おい》らだ」
「それでわかった」
「人違いだったから俺らも吃驚《びっくり》する、乗手の方でも腹を立って、櫂《かい》でぶん撲《なぐ》ろうとするから、俺らはまた海へ飛び込んで、時々頭をぽかりぽかりと出して、もしもどこかの舟にお前がいるかと思って、様子を見ながら岸の方へ泳いで行ったんだよ」
夕陽《ゆうひ》はようやく沈みかかるのに、二人は話に夢中になってしまって、今のさき、槍を振りひらめかしたことも米友は忘れてしまって、例の眼をクルクルさせながら、怪しげな手つきの仕方話《しかたばなし》。
「岸へ泳ぎ着いたところを、その近所の舟小屋に隠れていたお役人が御用と来たもんだ、俺らも二三人投げ飛ばしてやったけれど、竿を持たねえと思うように働きができねえで、それでとうとう捕まって縄をかけられてしまったんだ、口惜しいと思ったよ」
「さぞ口惜しかったろうね」
「それでお役所へ連れて行かれて、さあ白状しろ白状しろって、ギュウギュウ苛《いじ》められ通しなんだ。だってお前、白状しろたって、盗みもしねえものは白状もできめえじゃねえか」
「ずいぶんひどいねえ」
「口惜しいから口を利いてやらなかった、そう
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