ムク」
その時、また同じく三保の松原の方から風を切って飛んで来る旅人。その旅人を見ると、ムクが一声吠えて飛びかかります。
「これ、どうしたんだね、人様に飛びかかって」
お君は身を以てムクの前に立ち塞がる。その隙《すき》を見て旅人は、燕のように急速力で駈け抜けてしまう。これはすなわち七兵衛。
ムクの力として、お君の抑《おさ》えた手を振り切るのは雑作《ぞうさ》はあるまいが、それでも抑えられた手が主人の手と思ってか、身振《みぶる》いをしつつ七兵衛の駈けて行ったあとを睨んで立っていました。
「なんでお前は、そんなに見ず知らずの人を吠えるのです、今までそんなことはなかったじゃありませんか」
ムクを促《うなが》して立とうとすると、
「三保の松原で大喧嘩《おおげんか》がある、早く行って見ろ」
街道で物騒《ものさわ》がしい声。
喧嘩喧嘩、という人波と一緒に、お君はムクに引かれて三保の松原へと来てしまいました。
「ムクや、危ないから、あまり近くへ行ってはいけないよ」
そう言いながらも、お君は逸《はや》るムク犬に連れられて人混みの中へ行く。
八
ムクが逸るから、それに逐《お》われてお君も人混みの中へ潜《もぐ》り込んでしまいますと、
「おや」
お君の驚いたのも道理、この人混みの中で槍を構えている人こそ、わが無二の友、宇治山田の米友でありました。もしやと思ったけれども、米友の面《かお》と姿ばかりは見違えようと思っても見違えるわけにゆきません。
「友さんではないか、友さん」
お君は人を掻き分けて飛び出しました。ムク犬はそれより先に勢いよく米友の傍へ飛んで行きます。その人が米友であったればこそ、お君は白刃の中を頓着する余裕がありませんでした。武士でさえ立入り兼ねる白刃の中へ。
「米友さん、危ない!」
米友は今、一人の若い武士を相手にして一心不乱に槍を構えているところでありました。その横合いから、お君は米友の身体に飛びついてしまいました。
「や、危ねえ」
お君に飛びつかれた米友の驚いたおかしな顔。
「米友さん、何をするのだよ。危ないじゃないか、お侍と斬合いなんぞして、怪我《けが》でもしたらどうするんだい、早く謝罪《あやま》っておしまい」
「君ちゃん、どいていな、この侍は若いくせに悪い奴なんだから」
「いけない、お侍様に手向いなぞをしてはいけません」
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