「誰が?」
「浜松の大米屋でお前さんを覘《ねら》ったという奴」
「うむ、あれか」
「あれがまたこの宿へ入り込みましたよ、執念深《しゅうねんぶか》いやつらったら」
「放《ほう》っておけ、今夜来たらば……」
 竜之助がグッと一口飲む、燈《ともしび》の光で青白い面《かお》が熱《ほて》る、今夜来たらば……叩き切ってしまうというものと見えます。
「まあ、およしなさい、道中は無事に限りますから、またひとつ裏を掻《か》いて、出し抜いてやりましょう」
 お絹は竜之助の面を見て笑う。こうして見れば、二人は夫婦気取りで旅をしているようです。
 お絹が竜之助をたよるのか、竜之助がお絹をたよるのか。お絹は浜松へ引込んでしまおうかと思ったのを、ふと、竜之助が来たので、また一緒に江戸へ出ることになったらしい。竜之助もまたお絹によって、難儀なるべき道中をともかくも心安く江戸へ下ることができるというものらしい。

 机竜之助のいたところと、遊行上人の泊っていた一間とは襖《ふすま》一重の隔たりでありました。
 眠れないでいた竜之助には、その夜更けて、不夜《ふや》の念仏をしていた上人の許《もと》へ忍び寄った二人の盗賊《ぬすっと》と、それに驚かなかった上人の問答をよく聞くことができました。
 初めはこう思っていました――これは自分のところへ来るつもりの盗賊が、間違って隣りへ来て僧侶を驚かしたものらしいと。
 ところが問答を聞いていると、盗賊は別にこの僧侶に望みをかけて来たものらしいのであります。
 事起らばと、竜之助は枕許の刀を取って待っていたが、何事も起らずに、盗賊共は帰ってしまって、僧侶があとで人を呼んで騒ぎでもするかと思えば、そんな様子は更にありませんでした。
 こんなふうにして、駿河の府中から出た竜之助とお絹の駕籠、それをまた後になり先になって跟《つ》けて行くがんりき[#「がんりき」に傍点]と七兵衛。
 本道を行かずに久能山《くのうざん》へ廻って、一の鳥居に近いところで駕籠を卸すのを見定めた七兵衛が、がんりき[#「がんりき」に傍点]へ耳打ちをしました。

 久能山の鳥居の前で、
「もしもし、そこへおいでになる奥様」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が呼びかけたので振向いたお絹、
「どなた」
「へえ、お初にお目にかかります、私でございます、あなた様のよく御存じの七兵衛の友達でございます」
 
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