ふ仇人《あだびと》の
浮気《うはき》も恋といはしろの
結《むす》び帛紗《ふくさ》の解きほどき
ハリサ、コリャサ、
よいよいよい、よいとなア
ツテチン、ツテチン
[#ここで字下げ終わり]
 心なき門附《かどづ》けの女の歌。それに興を催してか竜之助も、与兵衛が心づくしで贈られた別笛《べつぶえ》の袋を抜く、氏秀切《うじひでぎり》。伽羅《きゃら》の歌口《うたぐち》を湿《しめ》して吹く「虚鈴《きょれい》」の本手。明頭来《みょうとうらい》も暗頭打《あんとうだ》も知ったことではないけれど、父から無心に習い覚えた伝来の三曲。
 呼続浜《よびつぎはま》から裁断橋《さいだんばし》にかかる。
 こうして見れば、机竜之助もまた一箇の風流人であります。

 それから浜松へ来るまでは別条がありませんでした。
 浜松へ入って、ふと気がつくと、いつのまにかムク犬がいないのです。竜之助は名を呼んでみましたが、姿を見せません。立って暫らく待っていたが、どこから来る様子も見えません。
 さすがに物淋しくてなりませんでしたが、尋ぬる術《すべ》もありませんから、一人で浜松の城下へ入りました。浜松は井上河内守六万石の城下。
「おい、虚無僧《こむそう》」
 横柄《おうへい》な声で呼びかけた武士。振返ったところは五社明神の社前。
「おい、虚無僧、こっちへ入れ」
 社前の広場に多くの武士が群っている。その中から、いま通りかかる机竜之助を呼び止めたものです。
「何か御用でござるかな」
 竜之助は立ち止まって返事。
「ここへ来て一つ吹いてくれ」
「せっかくながらお気に召すようなものが吹け申すまい」
 竜之助は五社明神の鳥居の中へ入って行きました。
 見るとここで武術の催しがあったもの。それが済んで、庭の広場で武士たちが大勢、莚《むしろ》を敷いて茶を飲んでいたところでした。
「さあ、そこでまずその方の得意なものを吹いて聞かせろ」
「別に得意というてもござらぬが、覚えた伝来の一曲を」
 竜之助は、吹口をしめして「鶴の巣籠《すごもり》」を吹きました。誰も吹く一曲、竜之助のが大してうまいというのでもありません。
「それは鶴の巣籠、何かほかに」
「ほかには何も知らぬ」
「ナニー」
「ほかに虚鈴《きょれい》というのがあるが、これは、おのおの方にはわかるまい」
「何を!」
「いや、駆出《かけだ》しの虚無僧で、そのほかには何も吹け申さ
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