分は働かず、床几《しょうぎ》に腰をかけて指図《さしず》をしていたもんだ。平常《ふだん》、黒羽二重の紋付を着て、雑色《ぞうしき》は身に着けなかったという気象だ。鼠小僧はこちとらに毛の生えた質《たち》の奴で、子分を持たずに一人で鼠のように駈け廻った男だが、日本左衛門は虎になりそこなった大物《おおもの》だ、乱世ならば一国一城の大名になり兼ねねえ奴だ」
こんなことを言いながら浜松の町を真直ぐに通って、
「広いようで狭いというのがこの土地だが、それでも町の長さは二十八丁あって、家数《やかず》は三千からある。さあ、ここらで泊るとやらかそう」
てんま町へ来て大米屋《おおごめや》一郎右衛門とある宿屋へ着く。
牛に曳《ひ》かれて浜松まで来た七兵衛。さて数えてみれば、薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠の前を別にして、あれからでも約三十里の道。
湯から上った七兵衛、
「がんりき[#「がんりき」に傍点]さん、天竜寺の一件はどうしたい」
腰を落着けて飲んでいたがんりき[#「がんりき」に傍点]、
「今夜は駄目駄目、明日のことだ」
七兵衛も坐り込んで二人飲みながらの話。どこの部屋に、どんなのがいて、あれは景気は好さそうだがその実|懐中《ふところ》に金はあるまいとか、こちらの方に燻《くす》ぶっている商人|体《てい》の一人者は、あれでなかなか持っていそうだとか、あの夫婦者は実は駈落者《かけおちもの》だろうとか、この宿屋の客の値踏《ねぶ》みをがんりき[#「がんりき」に傍点]と七兵衛がする、どちらも商売柄、その見るところがたんとは違わない。最後にがんりき[#「がんりき」に傍点]が、
「そのなかで、俺の眼の届かねえのがたった一つあるが、お前はどう思う」
「うむ、二階の二番のあれだろう」
七兵衛の返事、おたがいの合点《がってん》。
「どうもあいつはわからねえ」
「俺にもわからねえ」
「よし、もう一ぺん確めて来る」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は便所へ行くようなふりをして、いま噂《うわさ》に上った二階の二番の前をなにげなく通って前後を見廻してから、そーっと障子の傍へ立寄ると、持っていた太い針のようなものを嘗《な》めて些《ささ》やかな穴を障子の隅へあけて、部屋の中を覗《のぞ》きます。
十畳の間、真中に紙張《しちょう》が吊ってあって、紙張の傍に朱漆《しゅうるし》、井桁《いげ
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