代《さかやき》の長く生えた男が伊達模様《だてもよう》の単衣物《ひとえもの》を着て、脇差を一本差して立っているのを殿様が見咎《みとが》めて、あれは何者だ、ついに見かけない奴、不届きな奴、追い出せとお沙汰がある、家来たちが見ると、お能役者のほかに人はいない、殿様はなお頻《しき》りに逐《お》い出せ逐い出せとおっしゃる、仕方がないから舞台へ上って追う真似をしてみたがなんにもいやしない、そのうちに舞台の上を見ると紙片《かみきれ》が落ちている、拾って見るとそれに『鼠小僧御能拝見』と書いてあった、殿様の眼にだけはその姿がちらついたんだが、ほかの者には誰も見えなかった。悪戯《いたずら》をしたものよ」
こんなことを話し出しているうちに、金谷《かなや》から新坂《しんざか》へ二里、新坂から掛川《かけがわ》へ一里二十九町、掛川から袋井《ふくろい》へ二里十六町。
そこでまたがんりき[#「がんりき」に傍点]が、
「松平周防守《まつだいらすおうのかみ》というのは大阪のお奉行様であったかな、その周防守のお邸が江戸にあって残っているのは女ばかり、そこへ附け込んだ鼠小僧、女ばかりのところを二度荒したってね。一ぺんは、長局《ながつぼね》の部屋という部屋の障子へ一寸ぐらいずつの穴があけてあった、そこからいちいち覗いて見たもんだね。一人の女中の部屋では鼈甲《べっこう》の笄《こうがい》や簪《かんざし》をみんな取り出して綺麗に並べて置いて、銀簪なんぞは折り曲げて並べて行ったとね。周防守のお妾さんの部屋では箪笥《たんす》から紫縮緬《むらさきちりめん》の小袖を取り出して、それを局境《つぼねざかい》の塀の返しへ持って行って押拡《おっぴろ》げて張っておいたそうだが、それで金銀は一つも盗られなかったとやら。いや、何を取られたか知れたものじゃない、ハハハハ」
白い細かい歯並を見せて笑う。七兵衛をして、こいつがその鼠小僧ではあるまいかと思わせるくらいに、ちょっと凄味《すごみ》の利く代物《しろもの》。
袋井から見附《みつけ》へ四里四町、見附から池田の宿、大天竜、小天竜の舟渡《ふなわたし》も予定通り日の中に渡って中の町。
「あれが天竜寺」
横目に睨んで浜松の町へ入る。
「いよいよ浜松だ、日本左衛門《にっぽんざえもん》で売れたところよ。日本左衛門という奴は、また鼠小僧とは貫禄《かんろく》が違う、あの大将は手下に働かせて自
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