隔てた次の間で、すやすやとお絹の寝息が聞えます。軽い寝息、吐いて吸う軟《やわ》らかな女の寝息、すういすういと竜之助の魂に糸をつけて引いて行くようです。ややあって寝返りの音。
髪の毛が枕紙《まくらがみ》に触《さわ》る。中指《なかざし》が落ちたような、畳に物の音、上になり下になり軟らかい寝息。
「眠れぬ、眠れぬ、由《よし》ないところへ泊った」
竜之助は反側する。にわかに寝息が低くなって、そして聞えなくなる。枕許の水を、手さぐりにしてまた一口飲んでみる。
途絶《とだ》えた寝息がまたすやすやと聞える。
「ああ」
懊悩《おうのう》した竜之助は、太い息を吐いて仰向けに寝返ると、お絹の寝間で軽い咳《せき》がする。
「眼が覚めたのかな」
枕許へ何か掻き寄せるような畳ざわりの音。お絹も、どうやら眼が覚めたらしい。
夜具を掻きのけたかと思われる様子で、やがてキューキューと帯を手繰《たぐ》るような音。竜之助の頭は氷のように透きとおる。
襖が開く、衣《きぬ》ずれの音。
「眠れますか。眠れますまいねえ」
襖の蔭から半身が見える、白羽二重《しろはぶたえ》に紗綾形《しゃあやがた》、下には色めいた着流し。お絹は莞爾《にっこ》としてこっちを見ながら、
「わたしも眠れないから、お邪魔に来ましたよ、こんな永い秋の夜を一人で寝飽きるのもつまりませんからねえ。わたしの方へおいでなさいまし、面白いお話を致しましょうよ」
竜之助は悽然《せいぜん》として、この女の大胆なのに驚いたが、驚いて見れば何のこと、それはやっぱりあらぬ妄想、感が納まって夢に入りかけた瞬時の幻覚に過ぎないで、一間へだてた次の間では、お絹の寝息がいよいよ軟らかく波を打つ。
その夜は明けて、翌朝になると、竜之助の眼が見えなくなりました。
三
机竜之助が東海道を下る時、裏宿七兵衛《うらじゅくしちべえ》はまた上方《かみがた》へ行くと見えて、駿河《するが》の国|薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠《さったとうげ》の麓の倉沢という立場《たてば》の茶屋で休んでいました。ここの名物は栄螺《さざえ》の壺焼《つぼやき》。
「お婆さん、栄螺の壺焼を一つくんな」
蜑《あま》が捕りたての壺焼[#ママ]を焼かせて、それをうまそうに食べていると、
「御免よ、婆さん、壺焼を一つくんな」
七兵衛と向い合いに腰をかけ
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